自分の存在を認めてあげる。
素直になる。
こんなに難しいことはない。少なくとも、ぼくにとっては。
ぼくは、悲しいときに、怒る。
涙の代わりに、大声を出す。
それもこれも、ぼくが素直じゃないからだ。
ぼくはとても頑固だ。
プライドが高く、意地っ張りで、負けず嫌い。
おまけに、さみしがり屋のなまけもの。
目の前のことに、一喜一憂しがちなのに加えて、AB型ということも手伝って、多重人格っぽく見られがちだ。
なまじっか、社交的な外面をしているので、その反動が近しい人に寄せられる。家族は、ずいぶんと気分屋なぼくに手を焼くこともしばしばだ。
身近にいたら、大変だろうと思う。
決して、言っていることが本心とは限らず、拗ねた態度がそうさせているだけ、ということが多い。
ぼくに本心を言わせるのには、ずいぶんと辛抱が必要だ。
メンヘラと変わらんな、と一蹴されそうなところだけど、そうやって差別用語的に処理されてしまうことがぼくにとっては一番怖いことだ。
それは一種の整理整頓であって、一度フォルダ分けされてしまったら、その後メンテナンスされることはなく、ずっとフォルダに格納されて終了だ。もしかしたら、フォルダごとゴミ箱にドラッグ・アンド・ドロップされてしまうかもしれない。
だから、そうならないように、一生懸命自分をさらけ出さないですむようにしてきた。
ぼくが素直になれないのは、怖いからだ。
素直になってしまうと、本心がバレる。
本心を語ると、誰からも受け入れられないような気がしている。
やっと手に入れたはずの安心を、自分が素直になってしまったばかりに、全て失ってしまいそうで怖いのだと思う。
だから、本心をさらさなくても済むように、怒ったり、笑ったりしてやり過ごそうとしているのだと思う。
それでも、やっとだんだんと素直になることが、本当に少しずつなんだけど、できるようになってきた。
それもこれも奥さんのおかげだ。
ぼくがどんな態度をとっても、内にある悲しみを見てくれる。
怒っているぼくの代わりに悲しんでくれ、
大声を出すぼくの代わりに涙を流してくれる。
そんな奥さんといると、恥ずかしくて、ずっと隠してきた本心が少しずつこぼれ落ちていく。
素直になるとは、自分を許すことだと思う。
そのままの自分でいることを、自分自身が許さない限り、素直にはなれない気がする。
実績や経験や、お金や評価や、友達の多さや信頼関係は、何一つ必要条件じゃなくて、いまの自分を、自分が許せることが、唯一の条件な気がする。
自分の本心に、善悪や正誤のラベルを貼らない。
本心がそこにあること自体を、当然のこととして、存在を認めてあげる。
それは、自分という存在を、まるごと認めてあげることに等しい。
素直になるということは、自分の存在を認めてあげるということなんだと思う。
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