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オレは悪くない!じゃなくて、そもそも誰も悪くないんだから。

おはよう。今日は7時半に起きた。いつかの6時台に起きるという習慣はなくなってしまっているし、まあ仕方ない。寝たいのだから寝よう。

日課は自分を守ってくれるものだけれど、それを守るがために苦しくなってしまうのだったら崩したほうがいい。ただ、ここで大事なのは、続けられなかったと思わないことだ。いま、やめているだけ。また再開すればいい。やめたわけじゃない。

こういう一つ一つの細かい意識、自分にプラスになるような考え方、もっというと、自分に都合の良い考え方をしていくのが大事だ。できる限りすべてのことを自分に都合よく考えてしまう。自分に都合よく受け取ってしまう。

そう、受け取ってしまうのだ。受け取る。これが大事。
受け取らずに「なんとかできたはずだ」と可能性を残すのが、いわゆる責任転嫁ってやつだ。うまくいってたのに、あのままやってたらオレはうまくやれていたはずなのに、〇〇のせいでうまくできなかった。という文脈が責任転嫁。

焦ったり、不安になったりしたときに、怒ったりしてしまうのは、責任転嫁であり、自分を守るための防衛本能だ。自分は悪くない、自分はうまくやれていたはずだ。〇〇がなければ、オレはうまくできていたはずだ。という反応。

目の前の事実を受け止めずに、空想の世界を作り上げてしまっている。「もしも〇〇がなかったら」という世界が、自分にとっての現実になってしまっている。

現実はいくつあってもいいし、空想の世界を現実だと思うこともよい。それがプラスに働くなら。目の前で起こったことを捻じ曲げてしまうのも、ある意味生きるための処世術なのだから。

だけど、誰かのせいにしなくてもよかったりするのを忘れないように。〇〇のせじゃないとしたら、自分のせいになってしまう。という考え方をしなくてもよいのだから。

そもそも誰のせいでもなくて、仕方ないよね、で終わらせることだってできるのだから。

こう書いていて、「仕方ない」という言葉が嫌いだった自分を思い出した。20代のころは、仕方ないって言葉はなんて無責任なんだろうってずっと思っていたな。よくしようという意識が感じられなくて、嫌だった。

でも、いまは違う解釈もできる気がする。
たとえば、仕方ないで済ませたとしても、もっとよくしようという気がないというわけではない。起こったことと、これからのことは、そもそも関係がないのであって、これからをよくしていくのに、明るい気持ちで考えたほうがよっぽどよい。わざわざメチャクチャ落ち込んで考え込む必要もない。

仕方ないと、あえてぶった切ることで、一旦リセットして、自分も周りも尊重できることもある。原因追求型の思考は気を重くする。

そもそも原因なんて追求しても変わらないってことも多い。原因なんて考えだしたらきりがない。たぶん、人間はそんなに単純じゃない。ダイエットしたいけど、食べちゃうんです。っていう人に対して、「頑張れよ、食べなきゃいいじゃん、痩せたいんだろ」とか言うのはメチャクチャ短絡的だ。

ダイエットしたいのは、何かのフェイクかもしれないし、こういう矛盾したことは、たいてい深層心理で違うことを求めているケースがほとんどだ。たとえば、親がそのままの自分を愛してくれなかったという思い込みが起因しているのかもしれない。

でももっというと、それも単なる思い込みで、、とか何層にも重なる意識がそこにはあったりする。それを紐とけばよいかと言えばそうでもなくて、そのおかげで守られていることだってある。

だから、原因さえわかれば解決できるなんてのは、勘違い甚だしかったりする。

とまあこんな感じで、しのごの言わずに、まず出来事に白黒つけないで、受け止められることは大事だ。見つめるっていうか。

ああ、こんなことになったんだね〜と、あたかも他人事のように。

オレは悪くない!って思うことじゃなくて、誰も悪くないんだから。勧善懲悪から抜け出そう。だれもオレのことを攻めたりなんかしていない。大丈夫だ。

(おしまい)



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