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効率よく生きない。

 効率というものが、どんどん怪しいと感じ始めている。効率的なものがずっと好きだと思っていた。効率の良さを人にも求めていたし、自分の行動も効率的であろうと努めてきた。だけど、実際の行動は、非効率的なものが多かった。うまくできない自分に腹が立つことが多かった。
 なまじっか効率的なイメージが理想として頭の中にある分、その通りにこなせないことがもどかしくて仕方なかった。なかなか埋まらないギャップに、自分は能力がないのだと落ち込んだ。

 ここ最近、1日を自分の気分を優先して過ごすようになった。無理をしなくなったのだ。朝は掃除から始める。玄関、靴磨き、トイレ、ブラーバで床掃除、煮沸消毒。洗濯機を回す。それからコーヒーを飲んで、noteを書く。それから仕事。
 真っ先に仕事に取り掛からない。まず自分の調子を整える。掃除は体を動かすし、部屋がきれいになって気持ちがいい。僕は掃除が好きらしい。小1時間やっている。あっという間に9時半だ。noteを書き終えるころには、10時半近くなっている。それから1時間ばかし仕事をしたら、お昼ごはんの時間だ。昼ごはんも自分で作っている。簡単なものが多い。野菜を適当に切って、耐熱容器に入れ、めんつゆ、オリーブオイル、たまにチーズをのっけて800Wで2分だ。早くて上手い。味噌汁もいい。これも簡単で失敗がない。

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 手っ取り早さなら、インスタントラーメンやレトルトカレーにまさるものはない。レトルトカレーなんて、温めないでそのままご飯にかけてしまう。とにかく早い。だけど食後になんだか疲れてしまう。ポテトチップスや、コンビニパンを食べたあとなんかもそうだ。1個100円ちょっとの焼きそばパンや、ハンバーガーを食べると、なんだかぐったりする。コーラも同じだ。自分でつくった料理は、どんなに簡単なものでも、リフレッシュ感がある。「食べ物を食べた」感がある。

 自分の気分を優先するには、予定を組まないことが重要になる。委託仕事をやめてしまったので、自分で自由に予定は組める。以前は、お金を稼ごうと効率を最大限に意識していた。止まることは悪だと思っていた。だけど、もともと非効率体質な僕には全くあっていなかったようだ。度々崩壊していた。ストレスがたまり、出来ないことに苛立ち、家族にあたって落ち込む。そんなことの繰り返しだった。
 今は、今日やることを今日決めている。朝、何をやるかではなく、何をやりたいかを書き出していく。紙にぺんてるの黒サインペンで書く。筆圧とペンの太さのバランスがちょうど気持ちいい。これ大事。計画通りに進めるのではなく、そのとき一番やりたいことをやったほうが、エナジーが溢れた状態で取りかかれるからだ。健全だ。
 仕事1つ1つも、焦ってやらない。心ゆくまでやり、嫌になったらやめてしまう。必ず仕上げなくてはと決めつけない。行き詰まったら寝かせておく。

 こんなやりかたは、サラリーマンでは無理だ。自営業であっても、委託仕事は務まらないだろう。友だちに普段の生活を話すのは、たぶん、できない?「お金は?」とか「それって趣味なの?」とか聞かれそうだ。もっともだ。自分だって不安だし、うまく答えられる気がしない。だけど、僕はこれでやっていくしかなさそうだ。ずっと認めたくなかったけれど、どうやら僕は社会不適合者らしい。こんな話が友達に出回ったら、ヒソヒソ話をされそうだ。病んでいるとか言われそうだ。でも、仕方ない。僕が健康に生きるには、これしかなさそうなのだ。

 人はそれぞれに適したスタイルがあるはずだ。使っている体が違うのだから、心地よく感じるリズムは違う に決まっている。そのリズムに合わせて、食べ物、住む場所、付き合う人、読む本、音楽、寝る時間、などを寄せていくべきだ。すべてはバランスだ。そのバランスを自分で如何に察知できるか。
 誰かに最高にマッチした食べ物があるからと言って、僕にそれが適しているかは別だ。いくら玄米が体に良いと言っても、消化機能が弱い人には、玄米は適していない。誰にでも完全なものなどない。

 効率は、やりかたを「絞る」ということだ。最高の効率は、選択肢が1つしかなく、物事は全て一直線に連なった状態である。その道からはみ出すことは非効率的とされる。それは多様性とは真逆のことであり、生き物としてではなく、機械として接するほうがより効率的だ。感情や意思はブレになるからだ。僕には、できそうもない。非効率なことをして、「損」をするかもしれないが、自分の気持ちを優先したいと思う。
 そろそろ10時半だ。洗濯物を干して、アイスコーヒーを淹れ、今日のやりたい仕事にかかるとしよう。

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