「お金」という対価、人との時間。

僕はちょっと前までコールセンターのアルバイトをしていた。24時間体制で、僕の場合はバイトできる日程が限られているので、夜勤で長時間勤務をしていた。所謂「クレーム対応」を専門としたバイトだ。
馬鹿にならないような電話代をかけて、たくさんの人が電話をかけてくる。電話の内容はちゃんとしたクレームであることなんて、稀も稀。
いや、場所によるのかもしれないけれど、うちの内容はクレームとかではなく、もはや「愚痴」か「悪口」か「説教」か、と言ったような、只の吐き出し口となっている。

冷静に一回突っ込んでおく。鬼畜か。ていうか、理不尽か。

そんな状況にいたからか、先日僕は苦手な人とご飯に行った時、思ってしまった。

「僕はどうしてこの人に面白くもない話をされて、長時間拘束されているのに給料が出ないのだろう?」

いや、我ながら最悪も最悪だ。本当に申し訳ないけど、でもそう思ってしまった。いや、そのくらい苦手な人であったし、正直なんとなく下心が見えていたから、一緒にいるのもしんどかった。

…断れよという主張は全くその通りなのだが、事情も事情だったので、断れなかったのだ。察してほしい。

人との関わりの中で「お金」というのはある種必須になってきてしまうことが多い。

誰かと会うための電車代、誰かと食事をするためのご飯代、誰かに喜んでもらうためのプレゼント代。
別にそれらにお金を使う事が悪い、ということではない。
そういうことではなく、「お金」という「対価」を払っていても、その人と一緒にいたいと思えるのかということだ。

すべて人とのつながりをお金に換算したら、ろくなことにならないし、そこを割り切った関係も僕は大切なことだと思う。

でも言い換えるのなら、「お金」は「時間」だ。「時は金なり」なんて言葉もあるけれど、僕等の時間はお金に換算することが出来るわけで。

バイトで言えば、一時間1200円とかで僕等の時間を売っている。

それ以上の対価を払ってでも、その人に会いたいのか。

今回の僕の話で言えば、僕はその人と会うのに、自分が対価を払う事がとても嫌だったのだ。むしろ「給料をよこせ」に近い感情を持ったことは「自分の時間を消費された」感覚があったから、そう思っていたと確認できる。

さて、胸糞の悪い、性格の悪いお話をしてしまったので、僕がむしろお金を払ってでも会いたい人について考えてみる。

僕がお金を払ってでも会いたい人、というのは、やっぱり自分にとって親しい人が多い。一緒にいて時間を惜しまない、もっと一緒にいたいと思える人だ。
自分の周りの環境が環境なところもあり、僕は周りに支払ってもらうことも多いけれど、仮に自分がお金を出すとしても会いたいと思う人はたくさんいる。

お金を消費している。お金に換算できるはずの自分の時間を浪費している。だけど、それは「お金」というものではなく、大きく精神的な、また物理的な「対価」を得ているから、僕は彼らに会いたいと思うのだと思う。

そういうものだ。本当に誰かに会いたいと思う時、大切にしたいと思う時、人は時間を、ひいては「お金」を惜しまないと思う。

お金の使い方は人それぞれ。何を目的にするかも人それぞれ。

でも、僕はどうせなら自分のお金がどういう意味合いを持っているのかをきちんと把握して使いたい。
そのお金がどういう意味合いを含んでいるのか、僕はそれをどう使いたいのか。
誰にそれを、時間やお金という「自分」を与えたいのか、考えたい。

#お金について考えていること

これにてこの文章はおしまい。