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生産する大地(経済学に人間を取り戻すために その一)

経済学は社会科学の中ではもっとも自然科学に近いとされていて、経済学者もそれを誇りにしている。だが、それゆえに、凡人には少々とっつきにくい専門知である。対象となっているのはわれわれ自身の経済生活であるはずが、いくら経済学の教科書を読んでも自分らの経験とつながらない。

それも不思議でない。今日の経済学は「効用」とか「需要供給」とかいう概念を扱うことになっている。それで、どうもすると抽象的な学問となる。他の科学同様、経済学は目に見える実在ではなく、その背後にある見えない力に注目する。その力は五感では感知できず概念によってしか捉えられない。

近代経済学は生身の人間を捨象することにより、経済領域を支配する不変の法則を見出そうとした。そうして人間不在の科学となった。マルクスは経済学を再び人間中心のものにしようとしたが、二流の追随者たちによってマルクス経済学もまた抽象概念の支配する形而上学に近くなった。

抽象化によって得られたものも多かったが、失ったものも多かった。その一つは、経済という領域がひどく狭く区切られて、その経済を成り立たせている大きな文脈が見落とされることが多くなったことである。同じ抽象化でも、この点ではむしろ非科学的な宗教的経済観の方が優れていたと思われる点がいくつかある。


大地の女神

もともと「経済」とは人間の物質的な必要を充足する営みのことである。つまり生命を育み維持するのが経済である。われわれの人生の大半は日々これに費やされており、これほど具体的なものもない。誰も「効用」を食って生きてる人間はいないのであり、衣食住やその他の必要をいかに満たすかという問いが経済学の根本にはある。

そして衣食住といった必要を満たすのは、突き詰めれば「大地・地球 earth」である。われわれは無からは何物も創り出すことは出来ない。ただ大地のもたらす素材を、自分たちの都合に合うよう加工する労働によってのみ、それを得るのである。それだけではない。われわれ自身が、モノと同じくこの大地から生まれ、死ねばまた大地に帰っていく。我々とちがって、この生命の循環的流れを無視した経済学は経済現象を不完全にしか捉えられない、と昔の人は考えたに違いない。

古くは大地は女神に譬えられることが多かった。地母神と呼ばれるものの腹から万物は生まれた。ギリシャの詩人ヘシオドスの『神統記』によれば、原初に存在したカオスのうちからまず大地(ガイア、ゲー)が生まれる。そして、その腹から山川や生命が生まれる。自分の夫となる天神ウラノスでさえガイアの腹から生じた。

ローマの詩人ルクレティウスは、エピクロスらの唯物論を哲学詩にしたことで知られる。唯物論であるから、理論としては大地は既に物質として定義されている。地母神は多様な原子の集まりに還元され、他のモノと同様に老いて朽ちていく。理論的にはそうなんであるが、詩の部分にはまだ地母神礼賛が残っていて、かえって地母神信仰の根強く残っていたことを伺わせる。

かくして私たちはみな天空の種子から生れている。
すべてのものにとってそれは同じく父で在り、それから滴る
水の雫を養い母たる大地がうけとってみごもり
ゆたかな穀物、喜ばしい木々、
人類を生み、すべての野獣の種族を生み、
食料をあたえ、それによってすべてのものが体を養い
楽しい生をすごし、子孫をふやす。
それゆえに大地が母なる名をえたのは当然である。
かつて大地から出たものは同じく大地に帰り、
そしてまたアイテールの領域から送りだされたものも
ふたたび空のひろがりに送り返されうけいれられる。
そして死はものを壊しても、元素の粒子までを
滅ぼすことなく、ただその結合を分解するのみであり、
それからあるものを他のものに結びつけ、
すべてのものの形をかえ色をかえさせ、
感覚をえさせ、一瞬のうちにまた失わしめる。

ルクレティウス『事物の本性について』藤沢令夫・岩田義一訳

理論では否定されたはずの女神の母性愛が、詩においては宇宙をつくり出す根本的な力とされている。原子も結局は大地の女神から生まれ、その手の上で踊り、またそこに帰っていく。この詩の冒頭では、愛の神ウェヌスも地母神的な性格を帯びさせられていて、生産と生殖・愛とが分化していなかった時代の面影を残している。

フレーザーの『金枝篇』においては、ローマ時代に月の女神ディアナが地母神として崇められていたとされているから、原初の地母神が天の父たる神に取って代わられた後に、その機能がさまざまな女神に移し替えられたらしい。

大地はただ生むだけではない。物質に生命を与えるのが母なる神の役割である。後に生気論(vitalism)と呼ばれるようになり、現代においてもベルグソンなどに受けつがれた思想は、地母神信仰から生まれたと思われる。同じくローマの詩人の『アエネーイス』からパラスという名の王子の死に際して次の一節がある。

⋯⋯ここに彼らはパルラスを、
いなかづくりの藁床の、上に高く載せ上げる、
時の若子のありさまは、処女の指が摘みとった、
柔らの菫やもの憂げな、ヒュアキュントスの花などが、
その輝きも恰好も、まだ失わずにおりながら、
母なる大地はすでにもう、養い送らず精気をも、
心配しないさまに似る。

ウェルギリウス『アイエネーイス』第11章、泉井久之助訳

死とは母なる大地が精気・生気を送らなくなった状態である、と描写されている。人間もまた大地の腹から生まれ、大地から生気を与えられながら生き、そして死においてまた大地に帰っていく。経済活動もこの地母神の愛、生気の流れの一環として捉えられた。

大地・地球からの逃避

今日の経済学では、このような人間と大地との間の交換という古来からの経済観は失われている。だが、マルセル・モースが『贈与論』で説いたように、近代にいたるまで多くの文化がこの経済観を維持してきた。日本もまた例外でない。そこでは「経済観」は「宇宙観」のなかに埋め込まれており分化していない。どうやら素人と専門家の経済観念の乖離の一端は、この大地の捨象から始まったらしい。

だが、実は古典経済学にはまだ、その残滓が認められるのである。無限の恵みをもたらすはずの大地の女神が実は思ったよりケチであり、その恵みは限られているというところから経済学は出発しているからである。

「土地・資本・労働」「地代・利潤・賃金」「地主・資本家・労働者」という経済学の主要カテゴリーは、大地との関係において定義される。地代は大地の稀少性から生じるし、賃金は労働を再生産するために要する必需品、特に穀物価格に比例すると考えられた。

リカードゥの地代論では、人口が増加するに従い、沃度の低い土地が耕作されるようになると地代が発生し、また穀物価格の上昇を通じて賃金を騰貴させ、利潤を圧迫する。

人間の生が大地に依存するかぎり、この圧迫から逃れることはできず、最終的には利潤は賃金上昇に食われてゼロになる。しかし、生産において資本の占める比率を高めることによって、これを遅らせることができる。資本は土地利用を効率化し、また大地に直接依存しない生産要素として定義される。資本は労働者とちがって大地からの恵みに直接依存しないから、大地の女神の吝嗇に対する防禦となる。

などと説明するとわかりにくくなるが、ロジックは単純である。生命は大地に依存する。だから生命から離れれば離れるほど、大地の吝嗇には影響を受けなくなる。労働より資本、流動資本よりや固定資本を増やせば、収穫逓減から生じる利潤低下を遅らせることができる。

そうして近代経済学は資本集約的・労働節約的な資本主義経済を正当化したのである。それはまた母なる大地(Earth)からの逃避という近代の全体的傾向に合致した思想でもあり、近代唯物論にもその根底にはある種の形而上学があるという、もう一つの実例であるかもしれない。

生産する大地

現代の経済学は労働価値説を否定しているが、これもまた大地とのつながりを一つ切断することになったんではないかと思われる節がある。労働価値説とは、モノの価値は人の労働に由来するというものである。例えば、甲の価値が乙の価値の二倍であれば、それは甲の生産に乙の生産より二倍の労働力を要するがためであると考える。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。