見出し画像

「迷って生きるべきか、信じて死すべきか――それが問題だ」(恐れる女 その三)

 「それで、オレもしばらくは仕事することができなくなった。仕事だけじゃない。なんにもやる気がでないんだね。気持ちは焦るんだけど、いま何をすべきかがわからない。いや、やるべきことはわかってるのに、それだけはどうしてもできる気がしないのかな。だからといって、それをやらないと他のこともする気がしない。だから、何にもできなくなった。」

 帰宅の途で、千沙は南天先生の言ったことを思い返していた。

 あれから南天先生は、千沙が立ち寄ると、ときどき顔を見せて、千沙と言葉を交わすようになった。千沙も問われるままに、南天先生に少しずつ自分のことを語るようになった。南天先生は言葉数は少なかったが、聞き上手であり、人を喋らすのが上手かった。今日は千沙が鬱病と診断されて休職した話になったが、千沙の話に黙って耳を傾けていた南天先生は、自分の経験をそういう言葉で語ってくれた。なんとなく千沙にも当てはまるような話であった。

 千沙は、漱石に小説に出てくる「恐れる男」と「恐れない女」についても、南天先生に訊ねてみた。「なんでまた、そんなことを思いついたんだね?」と先生は面白そうに言った。

 「大学の授業で聞いたんですけど、ある日、電車に乗ってるときに、自分は『恐れる女』なんじゃないかって、ふと思ったことがあるんです。」

 千沙は、うろ覚えながらも大学の講義で聞いた内容と、透ともっと深い関係に踏み切ることを躊躇した経緯を、先生に話した。いつの間にか、先生とはそういう話ができるようになっていた。

 「だけども、いくら考えても、『恐れる男』が何を恐れてるのか、自分も同じものを恐れてるのか、ぜんぜんわかんなくて。先生は、ご自分が「恐れる男』だって思われたことはないんですか。」

 「『恐れる女』の誕生か。面白いね。オレはそんなこと考えたことがないよ」、と先生は笑って答えた。

 そこでこの話は終わった。だが、二、三日すると、南天先生のブログに「恐れる男ハムレット」というタイトルの記事が上げられたのを、千沙は発見した。

 ブログで南天先生は、「恐れる男」の原型としてハムレットを論じていた。父王の亡霊から怖ろしい秘密、すなわち弟により毒殺された上に、妻を奪われたという秘密を明かされたハムレットは、復讐を決意する。だが、いまや王となった叔父に対する復讐は命がけである。この秘密を知ったというだけで、殺されるかもしれない。当面は何も気づいてないふりをして、阿呆を演じないとならない。

 しかし、時間が経つにつれて、固かった決意は鈍ってくる。あの亡霊は悪魔が化けた奴で、オレを騙してるんじゃないかといった疑いが起こってくる。こんな不確かな根拠で、自分の人生を危険にさらすのか? だが、あれやこれやの思考も、突き詰めてみると、自分がやるべきことをやらずに済ます口実にすぎないんではないか。叔父のクローディアス王は、女王と結婚することによって王権をハムレットから奪ったが、すでにハムレットに王位を継承する意志を明らかにしている。知ったことを知らないふりさえしていれば、いつかはハムレットは王になれるかもしれない。いま危険を冒して復讐などする意味などあるのか。

 真実を知らないふりをして生き延びるか、それとも命を捨ててでも父の無念を晴らすべきか。「生きるべきか、死ぬべきか――それが問題だ」という有名な問いを、先生はこうも非哲学的に解釈していた。『ヴェニスの商人』の裕福で何の不足もないような商人アントーニオが、理由もなくメランコリックな気分に悩まされている。『お気に召すまま』には、ジェイクイーズというやはりメランコリックな貴族が出てきて、森での牧歌的な生活や恋愛を美化する仲間たちに冷や水をかける。それらの例を挙げて、メランコリーはシェイクスピアの生きた時代の特徴でなかったかと問うていた。

 メランコリーの原因は、どうやって生きるべきかについての人々の確信が揺らいでいたからだ。だから、自分が間違った生き方をしてるんではないかという不安が拭いきれなかった。「そうであるなら」、と先生は文章を結んだ、「ハムレットの『生きるべきか、死ぬべきか』の意味は、『迷って生きるべきか、信じて死すべきか』ではないか」。千沙には、その意味がよくわからなかった。「自分のやるべきことを信じることができないくらいなら、死んだ方がマシ」ということだろうか。

 次に図書館に行ったときに、千沙は南天先生が言及していたシェイクスピア劇を借りてきた。千沙は文学部であったから、『ハムレット』などは学生時代にも読まされたことがあったのだが、正直なところ、何が面白いのかまったくわからなかった。現代の若者の気持ちを代弁してくれるような小説を好んで読んでいた千沙には、古典の登場人物たちはいかにも作りものっぽくて、感情移入できなかった。

 その帰り道に三瓶家に立ち寄ると、先生は居間で茶を飲んでいた。千沙の手にした本を見て、にやりと笑い、「なにかヒントが得られたようだね」とだけ言った。千沙と先生のあいだでは、まだブログの存在については話題になったことがなかった。千沙は先生のブログを読んでいるし、先生も千沙のブログを読んでいるにちがいなかったが、お互いにそれについては何も言わないことが、暗黙の了解のようになっていた。

 その日は、どういうわけか、シェイクスピアの生きた時代、宗教改革からピューリタン革命までのイギリスの歴史に話が及んだ。先生は、当時の人々の信仰が動揺していて、何をすれば救いが得られるのか、そもそも救いなんてものがあるのか、という問いが多くの人を絶望や自殺に追いやったらしい、そのような激しい心理的動因があったから、救いと永遠の幸福が賭け金であったから、死さえ恐れない者たちが現れて革命になった、というような話をしてくれた。ミルトンとかジョン・バニヤンとかいう、どこかで聞いたことのあるような名前も言及された。

 「坊さんたちの言うことを信用できない人たちが増えたんだね。だけど、その結果、人々は『こうすれば救われる』って決めてくれる権威を失った。『救われるために、いま自分は何ができるのか』は一人ひとりが自分で考えないとならない問いになった。だから、人間は内面的に深く、孤独になったんだな。それが多くの人をして、メランコリックな気分にさせたんじゃないかな。」

 そのような話を聞いたあとで読んだ『ハムレット』は、やっぱりよくはわからなかったが、以前読んだものとはまったく別の感触がした。自分とも無縁の世界ではないような気がした。千沙はブログに次のように書きつけた。

 *****

 王子は、他の人が知らないことを知ってしまったから、「恐れる男」になったみたい。他の人が知らないこととは、「時代の関節が外れている」こと。叔父による兄殺しと母の不義によって、王権が簒奪されて、宇宙の秩序が乱されてる。この秘密を知らされた以上、彼は行動しないとならない。正義を回復しないとならない。だが、それは彼の命を捨てることを意味する。だが、知らないふりをして生きることもできる。だが、だが、とハムレットは考え続ける。そうやって決断を実行に移すことを先送りにしちゃう。そうやっているうちに、最愛の人オフィーリアを失ってしまう。

 たぶん、大学の授業で教授が言ったのはこういうことだったみたい。「恐れる男」とは「他人の知らないことを知っているがゆえに恐れる男」である。他人の知らないこととは、ハムレットの場合には、父の亡霊から聞かされた犯罪的な王権簒奪の秘密のこと。人々がそう見せかけようとすることと現実はちがうということ。だけど、それだけじゃなくて、その時代の人々が抱いた一般的な悩みと結びつけられたから、デンマークの王子様が民衆の人気を博したんじゃないかな。

 つまり、死は確実であるが、来世の救いなどないかもしれない、あるとしても自分が救われる方法ははっきりとわからない、という悩み。あの世での報いがないとわかれば、なるべく死を先延ばしにして、この世で得られる喜びを最大にするような生き方、阿呆を演じてでも無難に過ごす人生がいちばん理に適ってる。だが、そう確信することもできないから、人は迷う。ハムレットみたいに。

 ひとは救われるため(日本人にとっては「究極の幸せを獲るため」と言ったほうがわかりやすいだろう、と先生は言ってた)なら何でもするだろう。たとえ命を危険にさらしてでも。だけども、何をしていいかわからない。あるいは、わかってるつもりでも信じ切れないから、命どころが一分だって時間をかけるのが惜しくなったりする。それなのに、それ以外のことをしてもムダにしか思えない。そういう状態では、ひとは行動できなくなる。これがわたしの陥った状態なのかしら。これが「恐れる男」や「恐れる女」の正体かしら。間違って生きちゃうかもっていう恐れが、生きることをむずかしくしちゃう。

 *****

 図書館の帰りに三瓶家に立ち寄った千沙の手には、こんどはミルトンとバニヤンがあった。先生は目を丸くした。「なんだか、えらい読書家になったみたいだな。うちの悪影響じゃないとよいがな。本ばかり読んでるとオレみたいになっちゃうぜ」。

 そう軽口をたたく先生をつかまえて、千沙はこう聞いた。

 「ハムレットの『生きるべきか、死ぬべきか』という問いが、『迷って生きるべきか、信じて死すべきか』であるなら、それはこうも言い直せるんじゃないですか。『何をしてよいか決められないまま一生を全うするか、いつかどこかで報いがあると信じて死をも恐れずに生きるべきか』って」。

 千沙の勢いに一瞬呑まれた先生であったが、それでも千沙にもう一回問いを繰り返させて、しばらく黙考した上で、こう言った。

 「どっちにしても『生きる』んだね。ちがいは信じるかどうか。自分が確実には知らないこと、知れないことで、なおかつ知らない方が楽に生きられると思われるようなことを、なおも信じられるかどうか。」

 そこで先生はからかうような調子になった。「それこそ狂気の沙汰じゃないか。考えられうるかぎり最上級の自虐だよ。誰がそんなことに耐えられるんだい? 何のためにだい?」

 顔は笑っていたが、目には探るような鋭さがあった。先生は、肯定する前に、必ずといっていいほどまず否定してみせた。そうやって先生は、よく相手の本気度を試すのだった。ほとんどの場合、千沙はそこで撤退するのだが、今日は引きさがらなかった。

 「そうでしょうか。きっとどこかで、たとえ自分の知らないところであっても、必ず報いがあるはず、ないではすまされない、と信じることができないなら、世界も人間も信じられなくなっちゃうんじゃないですか。この世にあるのは無意味に強いられた苦行だけになって、それこそ絶望しかなくなっちゃう。それで、わたし思ったんですけど、自分を信じることと、世界とか人間を信じるということとは、どこかつながってるんじゃないかって……」

 珍しく食い下がる千沙を相手にして、先生もまた真顔になった。

 「ふむ。そうなると、もう知ってしまった者、恐れる男と女にとっては、『君たちはどう生きるか』という問いへの答えとして、二つの選択肢があることになるね。一つは、知っても知らないふりをして(自分が知るべきことはもう十分知ってる思って、と言っても同じことだがね)、阿呆を演じて生きる。もう一つは、自分は知らないということを認めた上で、なおも自分を、あるいは世界かな? とにかく、何か疑わしいものを信じて生きる。ハムレットが最終的に選んだのはどっちかな?」

 「あとの方の『生きる』です」、と千沙は躊躇なく答えた。

この記事が参加している募集

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。