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魂意識

最終目的地点である愛について触れておこう

まず、愛は感情ではない。感情面での愛は愛情という。ここで言う愛は、言葉にするならallとか全てとか、そういった感じのものだ。all in oneをイメージして欲しい。世の中にある全てのもの、全ての感情、全ての現象、全ての物質、全ての歴史、とにかくありとあらゆる全部をぶち込んだ、それ、である。それを愛という。

ジャッジとか感情を手放せと言われるのは、要するに分別して入れないものを作るなということでもある。とにかく全部入れる。というか、全部がすでに入ってることを知るという感じだ。この全てがあると認識した状態で、この全ての入れ物こそが私だと認識し、私って愛そのもじゃんってなって、なおかつ元の状態に戻れなくなったことをスピリチュアルでは覚醒という。要するにそれを知ってしまったら、もはや知らない自分には戻れないということだ。

認識することの重要性がお分かりいただけるだろうか。
夫の浮気を知ってしまったら、もう知らない自分には戻れない。それに似た決定的な変更をもたらす。そしてそれは浮気現場に遭遇するなど突然知ることもあるが、おおむね疑う期間がある。もしかしたらと疑えば、ぽつぽつと証拠が出てくるし、つい探してしまう。例えはそれで合ってるのかという話にもなるだろうが、あながち間違ってもいないのだ。

そしてついでに、覚醒したらどうなるのかってところ。非常に残念なお知らせでもあるのだけど、別に何も変わらない。一周回って元通りという今と全く変わらない現実を見るし、自分も変わらない。ただ視点の次元が違う。同じ世界を全く違う視点で認識する。秒針は一周回って元の位置に戻る。ただ次は長針の視点で現実を見ることになる。世界という盤面は何一つ変わらない。その前も後も秒針・長針・短針は存在している。争いが終わることもなければ、いい人ばかりになるわけでもない。なにもかもが思い通りになるのではなく、何もかもが思い通りだったと知るのだ。イエスやブッダをはじめ、今も昔も覚醒者はたくさんいるけど、戦争は続いてるのをみればわかると思う。

意識の拡大あれこれ

一時的にそういった領域に入ることがある。その状態は持続しない。一般的には、ワンネス・悟り・自己覚知などと呼ばれている。
これは言ってみれば、浮気の痕跡の何かしらの証拠を見つけたときと似ている。夫の車で女性の髪の毛をみつけた、くらいから、ホテルに入るとこを見たくらいまでさまざま。覚醒する状態は夫の口から「浮気しました」という言葉を聞くことだ。(あくまで例えね)

意識が拡大するとなにかしらの神秘体験と呼ばれるものがある。代表的なのはワンネスに見られる「全てがつながっている感」や「私が愛そのものだ感」や「自分と自分でないものの境界がない感」であろう。

その上で魂意識と会話が成り立ち、現実がバーチャルであると認識し、地球現実の構造的な仕組みや宇宙の仕組みを把握し、なんなら「ああ、創造主って私のことか」と認識する。このあたりを自己覚知といい、悟りはその部分的な認知であるかと思う。おびただしい情報は外からやってくるのではなく、自分のうちから思い出すというかたちでやってくる。

このあたりを体験するともう現実世界には先生が事実上いらなくなり、全ての人が先生になりうる。全ての人が自分の意識を体現してくれているのであって、自分が見ている世界を構成するための協力者だという認識で世界を見始める。

ここから先の道のりもかなり長いが、思い立ってから覚醒するまで、どうかすると2転生ほど費やすのが常だったという。今は集合意識も前の時代より軽くなっているし、2転生はさすがにかからないかなと思うけどそこそこかかる。気長に行こう。

魂意識はけっこうな人でなし

いわゆる魂意識と言われる状態は、なんだかんだ人に近い。喜怒哀楽をよく理解しているし寄り添うこともできるが、一切のおせっかいをしない。要するにネガティブな感情にまみれている肉体サイズの意識に対して、ただひたすらの愛を注ぐものであり、観察するものであり、助けたり救ったりということは基本的にない。質問をすれば的確な回答はくれる。この世の全て宇宙の全てを「それでよし」としていて、いろんな感情の体験に対しての尊重があり、それは魂の喜びでもある。なので、ネガティブな感情もポジティブな感情も等しく尊いものであり、愛しいものであり、一切の否定がない。
例えば虐待を受けていたとしても、実のところ魂意識としては「ん〜、いいね〜。」という感じなので、ややもすれば人でなし感もある。この感覚は何が一番近いかといえば、ホラー映画やどろどろした人間関係を描いたドラマや小説、何よりそういったゲームをやっているときの感覚に近い。
プレイヤーはゲームの中で主人公である自分が死んでも残機が減ったくらいの感覚だし、敵をいくらやっつけても、爽快感を味わったりすることはあっても罪悪感など感じない。より難易度の高いゲームを楽しみ、クリアすれば「あ〜楽しかった!」で終わる。どんな酷いドラマを見ても「いい話だった!」と言う。そのゲームやドラマの中の世界が、この現実なのだ。そして何か面白いゲームはないかなと次を探し出してプレイする。
これが魂意識が人間という入れ物に宿り、人として生きるということだ。

ちなみに人はなぜ生まれ生きるのかという深淵な問いの答えは出ている。その目的はただ一つ、感情の体験だ。
魂意識は完全無敵・不老不死・世界の創造主というとんでもないものなので、修行するとか成長するとかいい人になるとか、幸せになるためとか、そんな些細なことは目的にしない。なろうと思えばどんな存在にもなれるし、その舞台も作れる。そんな魂だからこそ、人間という入れ物に入って多くの制約を整えないと体験できない感情があって、そのために人として生まれてくる。そしてそれをリアルに感じるために、叡智のいっさいを忘れる。

現実の没入感に翻弄されないために

現実はあまりにリアルでこれがバーチャルだということを忘れがちだ。とにかく没入感が半端ない。それが何よりおもしろいところなのだが、覚醒を目指している諸氏はこの視点に立ち帰ることを習慣づけよう。

自分の世界で見る他者はどこまでも自分の意識を映し出した役者だ。自分の意識を代弁し、「私」というものを見せてくれる協力者だ。
この道中で幾度となく「ああ、あの人これを手放せばいいのに」と思うことがあると思う。そういうときこそ思い出そう。それは「私」だ。手放すのはその人ではなく自分だ。自分の世界には自分しかいないので、そういうときこそ自らの責任として手放そう。
そこでは何の2極がぐるぐるしていて、どんな感情があって、どんな認識をしているか。俯瞰して観察し、そっと手放そう。

誰かを気の毒に思い救われていないと思うとき、救われていないのは自分だ。自分を救えるのは自分だけだ。きっとそのとき、世界はとっくに救われていて、人々は生き生きと戯れているだけだということを知るだろう。

誰かを許せないと思ったら、自分の中の許せていない自分をみつけよう。そこにあるいろんな感情を十分味わって、お疲れさん、ありがとねと送り出そう。

集合意識を抜けるまでは、自分としか会話していないし自分にしか出会わない。集合意識の先にはまた他者がいる。それもいずれ自分だと気づくとしても、どっちにしろそれが繰り返されるので、とりあえずはその他者に会おう。

この人は何でこうなんだろうと、一見理解できないと思う人と会話する時、肉体サイズの意識と俯瞰した上位意識をもって、肉体意識に好きに喋らせてみよう。自分がどんな認識をして何をジャッジしているか、どんな不満を持っているか、何にもやもやしているか、自分が喋ってくれる。そして相手はそれを引き出してくれる。偶然出会うのでもなければ嫌がらせに登場するのでもない。必然的に現れてくれている。





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