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教員の成功体験と生徒指導のジレンマ 

  高等学校の教員になるには、特免と臨免は例外として、大卒以上が必須なのは知っての通りです。

 現在では、修士以上の学歴で教員になる人も随分増えてきました。

 そして、大学への進学率は短大も含めて60%程です。専門学校や4年制の高専を含めても84%程です。

 そうした中高校の教員は、大学入試を突破し教員採用試験に合格した人材であるのに、その体験があたかも一般的な体験であるかのように生徒に接しているのに気づかないのです。

 専門教育を行っている高校はそうでも無いかも知れませんが、一般的に総合学科や普通科の教員は、大学受験こそが全てであるような教育活動を行っているのです。

 私には、これは恐怖以外の何物でもありません。

 教員になるための体験、それはまさに自分自身の成功体験な分けですが、それに頼って生徒を『指導』しようとするのです。

 でも、考えてみてください。現在の教員の給与体系は、少なくとも東京都の場合は、勤務年数が嵩めば所得を階層別に分けた場合、少なく見積もっても上の金額から20%に入る上位の中間層です。

 また、その専門性から知識層の末席には入るわけで、義務教育等教員特別手当の支給にみられるように、教員に優秀な人材を確保することを目的として作られた法律により、一般の事務職より高い給与が支払われる仕組みになっています。

 何が言いたいのかというと、こういった属性から教員という存在は世間からかなりズレている存在だと言いたいわけです。

 にもかかわらず、そのズレた成功体験を元に生徒を『指導』するわけですから恐ろしいのです。

 退職間際にこんな事がありました。SNSの不穏当な使用で他の生徒を傷つけてしまった事案で、ある教員が話を聞いていたところ(いわゆる事情聴取ですね)最終的にはありのままを話してくれたことがありました。その教員が、他教員との指導原案を話し合う情報共有の場で「全てゲロしてくれました」話したところ、脳内お花畑の担任教員が、保護者に事情を説明する折学校で嘔吐したと報告したのです。

 信じられないことに、この教員は『ゲロした』の意味が分からなかったのです。この教員、今までいわゆる進学校ばかり経験していて特別指導-嫌いな言い方ですが-がほぼ無った学校での勤務しかなかったのでスラングが分からなかったのでしょう。でも、信じられますか?こんな教員。

 一事が万事こんな様子で、この教員は些細なことでも直ぐに『指導』をしたがるのですが、そもそもこんな教員が何を指し示して導くのでしょうか? 何かしたところで、ズレまくっているわけですから一切響かな無いのは想像に難くないでしょう。
 
 でも、本人は「指導に乗らない」とか「あの生徒は、反省もなく駄目だ」とか言うわけです。全く、アホが。

 実は、私にも経験があります。それはいわゆる底辺校、中学の内申書はほぼ1と2ばかり3教科の総得点は100点に満た無い学校に、初任として赴任して2年目のことでした。少し教員の仕事にも慣れてきて生徒と接して感じることがあったのです。

 こいつら全然勉強しない。将来に事なんか、全く考えていない。今勉強しないと、大学にも行けず所得を増やすことが出来ないのに、その損得勘定も分からないしょうもない生徒だと。

 また、こんな事もありました。それは、体育の時間の前に男女が同じ教室で平気で一緒に着替えるのを目の当たりにしたのです。更衣室まで行くのが面倒なのは分かります。でも、おおっぴらに肌を晒すものでは無いにしろ男女が一緒の教室とは..... 小学生でもあるまいしと心底驚愕しました。

 そこで思ってしまったのです。ここの生徒は恥じらえさえ感じないバカな奴らなのだと。
 
  ところが、生徒の真の姿は全く違っていました。あるとき自分が担任するクラスの生徒が喫煙で特別指導となり、反省状況の確認のために生徒の家を家庭訪問することになったのです。

 訪れてみると、そこは6畳一間に台所とトイレがあるアパートの二階でした。お風呂については記憶が定かでは無いですが、この部屋に両親と子ども4人で暮らしていたのです。

 勉強しろって言っても、無論自分の部屋も勉強机もない。それでも、アパートの階段を机代わりにその階段の明かりを頼りに辛うじて勉強をしていたのです。勉強しないのではなく、勉強しようにも環境がなかったのですね。

 私も中学校までは自分の部屋も無く風呂もない4.5畳と6畳のアパートで育ちましたが、辛うじて勉強机はあったし、その後は一軒家に引っ越して自分の部屋も持てました。

 要するに、学習する環境があった分けです。その私が、いくら勉強しろって言ったところで、それが届くことはありません。

 環境がなければ、学校とか図書館で勉強をすれば良いと思うかも知れませんが、それは環境が整っている人の言い分です。

 幼い兄弟の面倒をみないといけない、家計を助けるためにアルバイトをしなければならない等々難しい事情を抱えているのです。

 そうした中、我々教員が言う良くない先輩に出会って、そっちの世界に流れていきます。取り敢えず、お金を稼いで楽しく過ごしている先輩達は憧れなのです。勉強したって点数が取れる分けじゃあないし、大学に行く費用もない。

 勉強なり学習するなりにしても、動機づけが無い生徒に『ズレた』教員が何を言っても無理なわけです。

 そうそう、着替えの件ですが、6畳一間に家族6人で住んでいれば、着替えもその中でせざるを得ず、教室で男女が一緒に着替えても何の抵抗もないのも当然なのです。

 例えば、今お話しした現状を知った上でも、学習意欲もモラルもない駄目な生徒達ってレッテルを貼るのですか?

 私には信じられないのですが、こういったレッテルを貼る『ズレた』教員の方が多いようにも感じてしまいます。

 自分が見てきた社会や様々な体験は生徒と必ずしも共有できないものである事、それをしっかりと踏まえてもし生徒達が自身に取って理解しがたい行動を取ったときに、何故と考える習慣を付けないといけないのではないでしょうか?

 このように考えないと、世の中は『問題行動』をする生徒ばかりになってしまい、生徒にとってはもちろんですが教員にとっても辛い学校になってしまいます。

 出来ない/やらないのではなく、何故出来ない/やらないのかを考察し、出来る/やれるにしませんか?

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