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2023.03.17~22 九州横断の旅③

翌朝、起きるときれいな朝焼けが広がっていました
静かな波の音しかせず、いい朝を迎えられました・・・

朝日が昇るのを眺めながらカレーメシを食べ、コーヒーを淹れて
対馬キャンプを終えました
13時には博多に戻る高速船が出るので厳原港に戻りつつ、最後の観光へ

ゴーストオブツシマには多くの神社が登場するのですが
流石にこちらも「映え」を意識してデフォルメされていて
「いやいや、さすがにこんな神社ないやろ」
と思ったんですが、モデルは数多く実在していて

こちらは和多都美神社といいます
「いやいや海の方に鳥居がそんないっぱいあるわけ・・・」
とゲームやってて思ったんですがありましたw
すごく神秘的なところでした
神社の脇の道を車で登っていくと展望台に上がれたのでいってみました

対馬の中部はリアス式海岸になっていますが
それがよくわかる景色でした
室町時代には倭寇と呼ばれる日本の海賊が拠点にしていたのも
頷ける地形ですね

厳原港の近くで車を返却して港まで送っていただき、
高速船に乗って対馬を離れました
正直、まったくもって不完全燃焼な旅でした
こんなにも素晴らしいキャンプ場、史跡、聖地がありながら
全然周りきることができず、悔しかったので
近いうちにリベンジマッチを行いたいと思いますw
博多港到着後、電車で久留米へと移動して久留米のホテルで一泊

翌朝からはかなりの豪雨でしたが車を借りて福岡・佐賀観光へ
最初は太刀洗平和祈念館

ここでは国内で唯一、模型ではありますが
実物大の震電を見ることが出来ます
震電は大戦末期に開発が進められた迎撃戦闘機で
他に類を見ないプロペラが後方に配置されたレシプロ機で
完成していればB29の迎撃に活躍したであろうと言われています

こちらも国内で唯一、現存している九七式戦闘機
戦闘機では海軍の零戦、陸軍の隼が有名ですが
こちらは隼の前世代機となっています
なんでも太刀洗の飛行隊には松本零士先生のお父様が
搭乗員として勤務していて
九七式戦闘機の尾翼に描かれた部隊マークも
お父様のデザインだったそうです。
ちなみに零戦の展示もあったのですが
こちらも三十二型というかなり珍しいタイプで
珍しい機体を三機も見れて眼福でした

そのあとは岩戸山古墳を見学
古墳と言うと埴輪が有名ですが
北九州のこの地域では埴輪の代わりに
石人・石馬が周囲に配置されるのが特徴です

いわゆるヤマト政権とは一線を画した勢力が
北九州に存在していたことがわかります
実際、この岩戸山古墳に葬られた磐井という人物は
ヤマト政権と戦って敗れたと言われています

次に訪れたのは柳川
城自体は学校に変わってしまっていて見ることはできませんが

柳川藩を治めた立花氏の屋敷と庭園を見学することが出来ました
立花氏はもともと北九州の大名、大友氏に仕える武将だったのですが
大友氏は南九州の大名、島津氏との戦いに敗北し、滅亡の危機に瀕します
そこで大友氏は豊臣秀吉に救援を求め、
秀吉は大軍を率いて島津氏を討ちます
この際、顕著な活躍を見せた立花宗茂
大友氏から独立して柳川の大名として取り立てられます。
立花宗茂はその恩義から関ヶ原の戦いでは西軍に属したため
改易され、浪人となってしまいますが
その才能を惜しんだ徳川家康や秀忠は立花宗茂を再び取り立て、
柳川の大名に復帰させるという異例の厚遇を受けたことで知られています

つづいて訪れたのが吉野ヶ里遺跡です

弥生時代を代表する環濠集落として知られています
弥生時代は稲作がはじまったことで、
余剰生産物や水源、労働力などを巡る紛争が発生するようになります
そのため、一昨年、四国で訪れた紫雲出山遺跡のような
高地性集落やこの環濠集落のように
防御機能を持った集落が成立するようになります
また、このような集落を囲う柵を「クネ」と呼びます
これが「クニ(国)」の語源だと言われています

ちなみに吉野ヶ里遺跡の帰りに温泉に寄ったのですが・・・

「卑弥呼の湯」と言い切っていましたw
邪馬台国論争は昨今、北九州説より畿内(関西)説が優勢ですが
北九州地域としてはやはり邪馬台国は押していきたいところなのでしょうw

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