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誰でもない視点から世界を眺める | 今日の考え事(2023-12-28)

エゴが現れる言葉として「私」と「未来」を挙げた。

考えてみると、受動態もそれに該当するのではないかということに気づく。ニュー・アースに書かれていた「動揺したときの行動や反応を見てみると、何を大事だと考えているかすぐ分かる」という部分に残したメモが分かりやすかったので、以下に写してみた。ネガティブな言葉が並んでいて申し訳ない。

母にお風呂のドアを閉めろと言われたこと(面倒だな)
歯医者さんに同じことを何度も説明されたこと(分かってるって)
自転車屋さんに(少し)逆ギレされたこと(意味不明だ)
初対面の人にきつい口調で話されたこと(何でそんな言い方するんだろう)
姉に暮らし方について文句を言われたこと(何偉そうにしてるんや)

小さい人間だということが丸分かりで恥ずかしいが、とりあえず受け入れるしかない。注目したいのは「言われたこと」「されたこと」のように、受動態になっていることだ。見事にエゴが被害意識という形で現れている。世界を私中心として見ているとき、私を受け手とした受動態が現れる。ありのままを見るのであれば、「母が(私に)お風呂のドアを閉めるように言った」になるはずだ。受動態は言い換えができるので、使わなくても思考の中では困ることはない。

なぜエゴが現れないようにするのがよいのかというのは、長くなりそうなので一旦置いておこう。以降は、一人の人間の視点から世界を眺めることの違和感のようなものを説明してみたい。突然だが、机の上にみかんが2つ置かれているとしよう。当たり前だが、みかんのうちどちらか一つを私だと思うことはない。しかし、人が二人いればそういうことが起こる。片方が私で、もう一方があなた、そう考える。

果たして、この考え方には必然性があるのだろうか?あるように思える。みかんを私ではないと思うのは、それを外から眺めているからだ。人を私だと思うのは、その視点から眺めているからだ。ポイントになるのは視点で、広く言えばそれ以外の感覚も含めた知覚ということになると思う。

記憶に関する本で読んだ面白い話に「何かを思い出すときは、それを実際に知覚したときと同じ脳の部位が活性化する」というのがあった。ミッキーマウスを思い浮かべたときは、脳に実際にミッキーマウスを見たとき、ミッキーマウスの声を聞いたときと同じ神経活動のパターンが現れる。

夢を見ているときも同じようなことが起きているのだと思う。夢には妙なリアリティがあるが、現実的ではないことも起きる。夢を見ているときにそれが夢だと思うことはあまりない。この2つのことから分かることは、知覚は現実を越えることができるということだ。想像力を働かせれば、自分以外の視点から世界を見ることもできる。空から人を眺めることもできる。机の上の2つのみかんを眺めるように。

夜の街を散歩しながら、誰でもない視点で世界を眺めてみようとした。鉄馬という人間が歩いている。名前を知らない誰かが歩いている。車がライトを照らしている(私がライトに照らされているのではなく)。試してみると、生まれて初めて本当の世界を見ることができたような気がして、それがとても美しいと思った。

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