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【短篇】午後五時に死ぬ(15枚)

 人生も折り返しとなり、死ぬということについて考えるようになってきた。というか死についてはわたしは子どものころからずっと考えてきたのである。

 小学校一年の時、出張する父に連れられて熊本に行ったことがあった。そのときわたしは初めて飛行機に乗ったのである。

 熊本には父の妹がいて、その子の従妹とふたごの従弟がいたのである。阿蘇山に遊んで、ロープウェイの乗り場で、「ひとは生まれた瞬間から、死に一秒一秒近づいている」という看板を見た。大きな看板で、文字の横に地蔵さまみたいな画像があった。

 小学校に上がったばかりの夏休みであったが、通っていた保育園が漢字教育というものを滅多矢鱈に行う学園であったので、わたしは幼いながら「雀」とか「鷲」とか「鶴」とかを読むことができた。意味は分からないまでも、常用の文字は大体読めたのである。

 衝撃的であった。

 わたしはその夜叔母さんの家で(官舎みたいなところであった、父は仕事で別にホテルに泊まっていた)

 暗やみと布団のなかで、めそめそと泣いたことを覚えている。叔母さんが慰めてくれた。あすはお父さんに会えるよ、と言ってくれた。

 わたしはたしかに父が恋しかったが、それにくわえて「死に一秒一秒近づいている」という、その一秒、一秒が怖く、悲しくて、吹き上げる感情の、遣る瀬がなかったのである。

 通っていた小学校でのBCG注射の接種のことは、怖すぎてあまり記憶がない。あるいは幼稚園のときであったのかもしれない。あまりに怖すぎて気を失いそうになり、あまりに痛くて泣くに泣けなかったような記憶がある。一切声を出さずに慟哭したのはあの時が初めてで、後には絶えて無い。

 小学校の二年か、三年ぐらいの時だったと思う。人がちいさな頃は色々な予防接種をされるもので、わたしたち子どもはこの注射というものが大嫌いであった。

 ツベルクリン、抗日本脳炎などというものがいろいろとあり、また、こびとの果物ナイフみたようなもので指先に穴をあけられ細いストローで血を吸われる血液検査のようなものもあった。

 特別教室が施術の場所となり、小さなわたしたちは番号順に並べられ、その時を待った。子どもたちの表情はみな一様に暗く、いまにも泣き出しそうであった。というのもこの行列の先にあるのは苦痛であり、また絶対に避けられるものでないからである。

 出席番号一番が担任の先生に呼ばれ、カーテンの下りた特別教室に入ってゆく。つづいて二番が呼ばれ、三番が呼ばれる。

 そのあとに四番が呼ばれ、また五番が呼ばれる。

 行列はまるでアウシュヴィッツの猶(ユダ)太(ヤ)人のようで、だれも私語などをする者はいない。みな俯いて途方に暮れたような顔を、ちいさな肩にのせている。

 六、七、八……十、十一、十二……ここらへんで行列の空気が変わってくる。

 というのも、施術を終えた者たちが特別教室の後ろの出口から出てくるからである。

 かれらの顔はさきほどまでの神妙が嘘みたいに、すっきりと、輝くような顔をしている。

 わたしの名が呼ばれ、特別教室に足を踏み入れる。消毒薬のにおい、花壇に植えた朝顔や菜の花の芽とはまるでちがう、死に近いにおいがする。

 出席番号十四番の子が、医者なのか看護士なのか、閻魔大王のような人に呼ばれて白い丸椅子に座る。

 その様子を、わたしは見ていられないのである。なんとなればその次はわたしなのだから。

 担任の先生がわたしの肩に手を置き、背中をさすってくれる。

「すぐ終わるよ」

 と、担任の先生は勇気づけてくださる。

 わたしの番となる。世の中がスローモーションのようになり、頭の中は真っ白となる。

 消毒薬のにおい。腕につめたい感触が麻痺したみたいに残る。チクと一瞬痛みが走る、夢のように。針が抜かれ、それで全てが終わる。

「はい、おしまい」

 と施術者が言う。傷ついた腕を施術者の助手のような人が白綿でぬぐってくれる。

 白い丸椅子から立ち上がったわたしは堂々としたきもちになり、特別教室の出口に向かう。

 教室を出ると施術を待つ人の行列がある。

「しに、いたかった」

 という声がある。

「死ぬかと思った」という声もある。

 施術を終えた者が、施術を待つ者に対して囃したてるような雰囲気となっていたのである。

 学級の行列ののこりは俯いて、真面目な顔をした女子の行列である。

 わたしが子どもの頃は、番号は男が先で、女は後ろであった。

「注射の、針の、太さは」とわたしは言った。「鉛筆ぐらいだった。刺されたときは、気絶しそうになった。というかほんとに気絶をして泡をふいたが、先生が助け起こしてくれたのだ」

 わたしは子どものころから嘘ばかりをついており、針小を棒大のようにして言うのが得意であった。

 わたしが言うことを真に受けて顔色が真っ白になり、しくしくと泣き出す子もいた。

 わたしはそれが面白くてさらに「鉛筆というのは鉛筆で、書き方ノートにつかう、2Bのあの鉛筆だ。あの太さが身の内に刺されるのだぞ。痛いの、痛くないのって、その区別も分からないほどの痛さなのです」

 と、嘘ばっかりを言い、女子たちを怖がらせるのであった。

 先生たちは、このようないい加減なこと言ってひとに迷惑をかける子どもを注意するべきだったと思う。

 しかし担任は特別教室の入り口で、施術を目の前にした子どもたちを励ますので忙しかった。あの頃は副担任というのもなく、子どもたちの数はうじゃうじゃと居たので、人員の配置もままならなかったのだと思う。

 一組のあとには二組がある。

 わたしは一組だったので、二組の、三組の、男にも女にもでかい顔(ツラ)をすることができた。

 わたしの右腕には注射のあとの、脱脂綿がテープでとめられており、これを勲章のようにして大股で教室に戻ったのである。

 行列は二組があり、その先には三組があった。四組と五組は教室に待機しており、いやな気分で自分の席に座っているのであった。

 ちいさなわたしはいい気分で廊下を歩いていたが、ふとこれが死後なのかもしれないという気持ちにもなった。

 一組の女子、二組、三組は途方に暮れたようなきもちで列に並んでいる。四組、五組はまだまだ先のことだと高を括りながら、しかしいつかは来る、注射の針が自分の腕に、ぶすりと刺さる時を待っている。

「一秒一秒近づいている」わたしたちの死というものは、こういうものなのかも知れない、とわたしは何となく思ったのである。

 老若男女、貧者、長者、頭のよく回る者、膂力に恵まれた者、真面目な者、碌でなし、ペテン師、イカサマ師、香具師(やし)、人には色々な人があるが、ひとしなみにみな死が怖い。

 あるいはひと一人の一生にもいろいろな状態があり、あるときは愚かで、あるときは善人である、心身ともに参って身動きのとれないときもあれば、勢いに乗じて盛んなときもある。いずれにしてもさいごに待っているものは、死である。

 しかし死ぬ時の、その死をというのは呆気ないものだと思った。この世は苦痛に満ちている、見たくも聞きたくもないような苦痛もある、それでも死の一線を越える時の苦や痛は瞬くまなのかもしれない。

 それを待っている時のほうがずっと怖くて、惨(むご)くて、ずっとずっと苦しいと思った。

 死の一線を越えた者は霊となる。

 霊にも色々とあり、生前の生きざまや、おのおのの性質、経てきた体験によって、あるいはいさぎよく成仏し、あるいは人の世にのこって悪さをする、生前に恨みを残したり、心を残したりした者は、あるいは地縛霊や呪いをなす霊となり、それらを貫徹して地域の神となるものもある。

 霊には障(さわ)りがある場合もあり、生きている人に影響を与える場合もある。

 ラップ現象という現象があり、これは霊力が音域に与える現象である。

 ポルターガイストというものもある、これは霊力が人の世に顕(あらわ)れ、物理的な影響をなす現象である。

 小学生のわたしはいつしか成長し、ある日、F県のKKK大学を出て、S池袋線Hが丘駅の、あるいて四、五分の、S県N座市のアパートで暮らしていたことがあった。三階の302号室であった。

上京当初、わたしは無職であった。

 やることがないので、昼から焼酎を飲んだり、本を読んだり、部屋を出て周縁を歩いたり、春のあわい青い空の下の、武蔵野のひろがりを見たりしていた。

 そんなある日の夜、こたつ机に置いてある鉛筆が宙に浮いたことがあった。

 部屋の宙空に浮いた鉛筆は砂壁に字を書いた、震える描線で「オ」の字を書く、そして次の字を書く、次の字は「コ」である、また、「コ」を書き終わって「メ」という字を書く。片仮名である。

 この間約三十数分が経過している。

 わたしは芋焼酎のお湯割りを飲みながらずっとこれを眺めていた。

「オコメ」

 これはわたしたちの東洋の、主食の聖なる穀物を意味する大和言葉である。

 このポルターガイストの霊の言わんとすることの本意は分からないが、分かるような気がした。私は米に思いを馳せた。

 こがね色の稲穂の波、東洋の、日本の里山。わたくしどもが長く食べて、生きるエネルギーとしてきた、ソウルフードでありフードのソウルでもある、東洋諸国の諸民族の、最重要の植物にして食物にして穀物。

 魂。

 米の一粒は農民の流す汗の一滴、あるいは涙、血にもたとえられる。けっして無駄にしてはならない。とわたしは親に教えられて育った。

 米。

 米は何も米のみにあらず。あるいは酒ともなり、泡盛ともなり、焼酎ともなり、また米粉をもちいた麺もある、また、実は麺麭(パン)ともなり、クッキーやケーキともなる、実に千変変化の、多雨の地方に天から与えられた最適な穀物なのである。

 するとまた鉛筆が宙に浮く。矢印が書かれ、また矢印が書かれる。

「オコメ」の「コ」と「メ」の間に矢印が引かれ、「コ←→メ」と記号がしるされる。この記号に従い、「コ」と「メ」をあべこべに読む。

 わたしはためいきをついた。

 現実に存在しないエーテルのような幽霊が、気力のみにて物理的な影響を為し、霊力も振り絞って伝えるメッセージがこれなのかと、まったくバカバカしい気持ちとなった。

 上京当時のわたしは若かったが、ペットボトルに残った飲み残しを流しにながすようにして、若い時代はすぐに過ぎ去り、流れていった。

 その後は色々とあった。半世紀ほども生きたので人生は色々とあり、色々な現象を見て、経てきた。

 過去の助動詞の「けり」ではなく「き」に属する記憶も積み重ねてきた。

 ある年には大地震や大津波があった。

 その影響を受け、天災のような人災のようなかたちでF県の原子力発電所が爆発し、あたりに壊滅的なダメージを与えるのも見た。それをまのあたりに見た人びとはあじけないことを述べて、いささか心の濁りもうすらぐようであったが、それほど月日も経たぬうちにまるで何事もなかったかのように国中がふるまうのも見てきた。

「さいごは金目でしょう」

 との言葉も聞いた。

 またある時は時代に取り残された人が急に公の場に引っ張りだされ、

「おまえ何やってたんだ、いままで」

 と尋問みたいに訊かれる場面も見た。

 また強姦をして平気な顔をしている男たちも、何人も見てきた。

 先述した大地震・大津波・原発爆発ののちにわたしは自分が生まれたちいさな島の、O県N市の首里にオデュッセウスのようにもどって来たが、ここで周縁の地に住む人々の声が悉く無視されつづける現象も見た(そのとき見たというか、むかしっからのことである)し、島に住む住民の意志が国から法的な手続きで訴えられるという、天地あべこべのような変てこな事象も見た。

 指導者がテキトーなことを言うのでその部下があおりを受けて自ら命を絶つのも見てきたし、百八回以上も嘘をついたのに何の責任も取らなかった総理大臣も見た。

 子どもを数百人も犯しつづけて何の罪にも問われず天寿を全うし、葬儀においては国中からその死を悼む声が届けられた男も見た。

 安倍晋三が殺されるのも見たし、殺された安倍晋三を讃える本や雑誌の表紙も何冊も見た。

 今年(令和六年)は皇紀二千六百八十四年であるが、その歴史も知らず、たかだか百五十六年前の歴史にこだわる馬鹿どももたくさん見てきた。

 しかし見えるものは礼にかなわぬことばかりである。いっそのことこの目が潰れればいいのにと思うことも、ときどき思うこともあるのである、というかわたしの目はもう、ちかくもとおくも見えにくくなってきているのである。

 わたしはある日写真を見ていた。

 見ている写真の写っている場所は真玉橋のアパートであり、その写真を見ている場所は首里のTの、ローンで購(もと)めたマンションのリビングであった。わたしはいつの間にか中年の男となっていた。

 見ているのはわたしの最古の写真である。

 美しい母が写っている。母に抱かれて、嬰児みたいなわたしが写っている。わたしは毛のほとんどない眉をひそめて、哺乳瓶を吸っている。そして訝しげな表情で母の顔を見上げている。

 聞いた話だが、わたしは豆乳で育てられたらしい。母の母乳が出なかったのかもしれないし、わたしの体質が母乳に合わなかったのかもしれない。理由は聞いていないので分からない。というか聞いたかもしれないが①忘れたか、あるいは②母の説明が要領を得なくて意味が分からなかった。

 実情は②だと思う。わたしの母はべらべらとよく喋る人で、一を聞くと十の回答をするような人で、十の回答というか、聞いたこと以外にも聞いてもいない話をするのである。なので、質問と回答が嚙み合わず、豆乳の件を聞いているのに、話はいつしかわたしの体の健康面についての長広舌となり、兎に角野菜を食べなさい、煙草はやめなさいという話になるのである。

 それはさておき。

 写真の母は左の腕にわたしを抱いて、右手で哺乳瓶を支えている。そしてその顔は幸福そうにわたしを見つめている。

 母とわたしは写真の中で白くかがやき、おそらく真(ま)玉橋(だんばし)アパートの窓から入った西日を浴びている。

 画像の奥には壁に掛けた時計が写っている。ピントがぼやけているが、よく見ると午後五時である。

おわり


◇引用・参考文献
『方丈記』鴨長明

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