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「謝らない」のではなく「謝れない」父

子どもである私に対して、父が謝る姿をあまり見たことがないな〜と気づいたのは、中学生?高校生?くらいの頃だっただろうか。
そう、私の記憶の中では、あまり父に謝られたことがない。明らかに父に非があるような出来事であっても、父は私に対して「ごめんなさい」と言わず、巧妙に言い訳をしたり論点をずらしたりしてうやむやにして流してしまう。

「なんでお父さんは、謝らないんだろう?」とずっと不思議に思っていたけど、父は「謝らない」のではなく、「謝れない」のではないか、と最近は思っている。

私の家は、父・母・私・妹の4人家族だ。
父は会社員、母は私を出産するのに合わせて勤めていた会社を退職し、専業主婦となった。
両親はたまに言い争いなどはするものの、仲は良いと思う。でも私の目には、二人の関係性が「対等」には見えなかった。

親戚同士での集まりや、父の勤める会社の人たちが集まるイベントなど、家族以外の人と会う時、父は母を貶めるような発言をたびたびしていた。
子どもである私に対しても同じで、特に周りの人たちが母や私を褒めると、父は「そんなことないです」と言っていた。
それが、大事にしている人が褒められて嬉しいみたいな照れ隠しならこちらも嬉しいけれど、あまりそういうニュアンスではなかったことは、子どもの私もうっすらと感じ取っていた。

当時はなぜそれが起きているのかがよく分からなかったけれど、父が家父長制や権威主義、ミソジニーに浸かって生きてきたからなんだな、と今は思う。
私の父方の祖父(父の父)は孫には優しいところもあったが、厳しい人でもあった。そんな祖父に対して、祖母は苦労をしていた部分もあるようで、(やはり)対等な関係ではなかったのかもしれない。
父の実家はそこまで裕福な家庭では無かったけれど、父は勉学に励み超進学校へ進学・卒業し、一流企業へ就職した。母と出会って結婚後、一家の大黒柱として家族を支えないといけない、というプレッシャーは相当なものだったと思う。
父が「男」として勉学や就職、仕事を頑張ってきた背景を考えると、たくさん努力をしたんだろうなと思う一方で、「男」だからという理由でそれを強いられたり、期待されるのは苦しいなとも思う。

家父長制とは、男性が女性を支配し、年長の男性が年少者を支配する社会構造である。家父長制の中では、夫婦が「対等」な関係になることはない。
その仕組みの中で、母や私を下に下げることで自分の威厳を保ってきた父だからこそ、子どもに対して「謝れない」というのもうなずける。

私は、父に見下されていた。
自分自身がそういう扱いを受けていたということを認めることって難しいし、自分が傷ついているとすらあまり思っていなかったけど、でも当時のことを思い出すのは辛いし、父にそれを直接言える気がしないくらいには、心がしっかり傷ついている。

でもそのお陰で、私は、他人に卑下されることや、逆に自分の能力・価値などを自ら低く評価し謙遜することのような、人と人との関係性の間に働く力関係を敏感に感じ取る人間に育った。そして、広く社会の中で起きている不平等や差別、格差などの問題にも関心を持つようになった。

特にジェンダーの問題に関しては、ジェンダー平等達成まであと100年以上はかかると言われていることに対して、「自分が生きてるうちにジェンダー平等にはなり得ないって、どんな世界?どんだけ時間かかるの?」って怒りがふつふつとこみ上げることもある。
けれど、今の社会をそのまま次世代に受け継いではならないと強く思うし、そのために、これまで受けてきた痛みや怒りを原動力に変えていきたいと思っている。

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