サムライ 第9話

【前回の話】
第8話https://note.com/teepei/n/n6f05809f3ce8

 ある日、仕事の帰り道で偶然彼女に会った。どうも、と声を掛けると、彼女は何のためらいもなく、
「お疲れ様です」
 と笑顔を見せた。拒絶も微塵の警戒もなく、まあ当然と言えば当然なのだが、しかし今思えばこの時に何かが動いた。その正体も分からないまま、俺は彼女と話しながら歩き、二人の子供がいること、進学を控えていること、上の子が反抗期に入ったことなどを聞く。そのうちにバス停が現れて、
「私、バスで通ってるので」
 と、駅から帰る俺とはここが分岐点であることを知る。それじゃあ、と言ったそのあと、彼女は後ろめたそうに言った。
「ごめんなさい、何だか話を色々聞いてもらって」
 そんなことを遠慮がちに気にして、彼女は俺に謝ったのだった。人の助けを借りることにしばらく慣れていない彼女は抱え込むことに慣れ、こうしてまれに訪れた吐き出す機会にさえ気後れしてしまう。このまま誰も手を差し伸べなければ、彼女は限界に目もくれず、どこまでも一人で突き進んでいくだろう。あの、ゴミ捨て場までの廊下のように。その強さを切なく思い、俺はこの時彼女に手を差し伸べたいと思ってしまったのだ。
気にしないでください、と答え、それから再び、それじゃあ、と続ける。ええ、また明日、と彼女も答え、あの笑顔を見せる。立ち去りがたい気持ちを振り切り、バス停を後にする。
それから幾度か帰り道で一緒になることがあった。その度に彼女は自分の事情を吐露していき、気のせいかもしれないが、抱えていたものを少しでも下ろせたような、そんな表情を覗かせた。そして別れ際に見せる笑顔には、相変わらず立ち去りがたい気持ちを駆り立てるものがあった。その度に振り切り続け、しかしいつかは振り切ることが出来ないであろう自分を想像する。そんな時が来てはならない。しかし、いつまでも抑え込んでいられる自信がないことも確かだった。

 相変わらず片づけをしない森井と山辺に、謝りなさい、と声を掛けながら、徳本さんはさて、と俺に向き合った。まるでいつもの儀礼をこなし、ここから本題に入ると言わんばかりだった。何か抱えてるんじゃないのかい、そう気遣う徳本さんに、俺は一瞬のためらいをみせる。しかし次の瞬間には、抑え込んでいたあの気持ちを聞いてもらうことに決めていた。すべてを聞き終え、なるほどねえ、と徳本さんは呟いた。やはり、いくら徳本さんでも色恋の話は対象外なのだろうか。その後にしばらく続いた沈黙の中で、俺はそんなことを考えていた。
(続く)

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