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「自分探し」という名の荒野への冒険

どうも、ワイティー(@waithiii)です。

誰しも一度「自分探し」について考えたことはあるだろう。

古代ギリシアの「汝自身を知れ」という格言やアリストテレスの「自分を知ることは、すべての知恵の始まりである」などの言葉に代表されるように、自分について知ることは太古より人間が生を営む上での主要テーマだ。

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「自分とは何ぞや」「自分は何のために生きているんだ」「自分は何がしたいんだ」など悩む人も多い。

学生であれば、悩んだ末に自分探しの旅に出ることもあるだろう。

約20年生きてきた中で見つからなかった「自分」が旅先にいるのかはさておき、旅を通してこれまでに出会わなかった風景や人に触れることは貴重な機会だ。

私のようにコミュニケーションに難のある方には、国内ではなく海外に行くことをぜひお勧めしたい。


2. 「自分探し」という名の一人旅

例えばインドでは、子供・大人問わず道行くあなたに訳の分からない石の置物を売り付けようとするはずだ。

そうすると必然的にコミュニケーションの機会が生まれる。

日本だと道ゆく人に声をかけるのは、テレビ局のレポーターか迷惑YouTuberくらいのものだろう。

レポーターや迷惑YouTuberと話しても時間を失うだけで得られるものは何もないが、海外の場合だと、バイタリティ溢れるコミュニケーション術や文化的な価値観の違いなどに触れられる良い機会だ。

最低でも会話後のあなたの手元には石の置物があるはずだ。

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3. 「自分探し」の旅の真実

さあ、海外で無事石の置物を手に入れて帰国したあなたは、また日常に戻ることになるだろう。

そしてある日、ぼんやりと石の置物を眺めながら気づくはずだ。

「自分が見つかってねえ!!」 

そう、結局旅に出てもそこにいるのは「新たな自分」ではなく、自分とは全く異なる食物を食べ、異なる教育を受け、異なる価値観の中で育った人々である。

これまでに感じたことのなかった思考や文化、習性を見ると自分の中の価値観の変化や視野の広がりを感じるのではないだろうか。

詰まるところ、「自分探し」の旅を通して見つかるのは自分の小ささと普段目に見えない世界の広さではないだろうか。

「自分探し」とは、いわば悩める子羊状態である。

悩みを持たない人間はそうそういないし、自分の生き方に疑問を持つことは、多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。

何か決断を下すときに自分が正解だと思う方に常に進むことが大切なことだ。

自分の気持ちを殺すと「自分探し」という荒野から逃れられないどころか、一歩踏み出す気力まで失われるのではと思う。

悩みながら、子羊のように弱々しい姿を見せながらも、日々前に進んでいくことが「自分探し」という荒野への冒険ではないだろうか。

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