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【戦争回顧録】祖父の自分史〜手記を転記しました

亡き祖父はユーモアセンス抜群、多趣味でいつも何かに没頭、水泳が得意で泳ぎを教えてくれたし、川遊びに連れて行ってくれた頼り甲斐のある人でした。
平成5年、かつて戦争を体験し生きて戻った有志による仲間で戦争体験記を自主出版。当時の私は一通り読ませて頂き、自分の分は平和記念館へ寄贈しました。手元には実家に保管されてた原本のみです。
もっと、意思を尊重させたい、そんな気持ちになり、先ず祖父の原稿を転記しようと思い綴りました。
一人でも多くの方に届きますように。


台湾

日本陸軍高射砲兵
兵長 (亡き祖父)

 台湾、それは私にとって第二の故郷とも云うべき所であります。戦争を語る前に少し台湾の歴史を書きます。
日本が明治27、8年の日清戦争において勝利を得、その代償として清国より譲り受けた台湾であります。今度の第二次世界大戦において日本が敗北を喫し、中国に返還したものであります。日清戦争において日本が譲り受けて、昭和20年中国に返還するまで50年、半世紀の間
日本領土として統治してきたものであります。

 台湾の中程を北回帰線(北22度)が通っていて北半分は亜熱帯、南半分は熱帯国の属し全体的に気候も良く、暖かくて住みやすく地味は豊穣で産物も豊富で、特に果物も多く美味である。天然樟脳においては世界の9割まで台湾で産した。気候は暑くても36、7度で日本の土用のような蒸し暑さはない。動物も多く、ただし猛獣はいない。しいて云えば月の輪熊が棲息している位なものである。但し毒蛇は多い。困ったのは熱帯性のマラリアや、悪性の熱病である。日本が領有してから、だんだん少なくなってきたが、戦前はかなりマラリアがあった。聞くところによると最近は皆無であると云う。
その台湾へ私は小学校(高等科2年15歳 数え歳)を卒業すると、ポイと西も東もわからぬ大東と云う台湾の太平洋側の、鳥もかよわぬと云われた田舎町へ丁稚奉公に行ってしまったのである。以来、炎天、マラリア、首狩族と戦いながら、終戦まで昭和4年4月29日より18年間暮らしてきました。その間昭和17年3月、現地招集を受け高射砲兵として3ヵ年半を台湾警備に当たって来ました。

※飛行場警備


 台湾の中程にある嘉義市の飛行場の警備に就いている時でありました。昭和19年の11月頃と思います。
何しろ50年も前の事ですから、日時の記憶はありません。戦いは昨日の事のように蘇りますが、日時と場所は多少違うかも知れません。ご容赦願います。
 戦況がだんだん悪くなり、飛行機による爆撃が主でありました。でも、負けると云うような事は全然考えません。でも、スパイは多く、後で考えてみると、こちらの行動はすべてつつぬけのようでした。何しろ台湾の殆どの人が敵性人です。台湾のは人口のうち日本人が1割、蕃人(高砂族台湾の原住民)が0、5%であとは全部台湾人(対岸の広東省及び福建省より移住せる民)です。戦況が悪くなれば殆どが敵になる人です。領有50年と云え共、日本化している者はおそらく1割もなかったと思います。
 嘉義の飛行場は戦前からの飛行場で規模も大きく、兵舎もコンクリートの3階建で格納庫も10程あり、日本でも有数の飛行場でありました。その飛行場を瞬時にして遺憾的に爆撃されたのであります。
 思い出しても全く珍しい雲行きの日でありました。上空だけ丸く雲がなく、周り全部が厚い雲に覆われている、実に珍しい日でありました。当飛行場は今まで爆撃も銃撃もなく、時折上空より偵察機が2、3度来たくらいでした。その度に我が高射砲部隊は陣地を変えて爆撃に備えておりました。今にして思えば全く運命の日でありました。上空のみ雲がないと云う天気は稀のうちの稀でしかないものです。監視哨がB29を発見した時は、もう爆弾を落とす準備をしている時です。見ればB29が25機大編隊です。ゴオーゴオーと爆音を立ててやって来ます。
 ヨーウシ、やるぞ!と皆真剣です。よき獲物ござんなれと虎視眈々ねらいます。
「高度 7800!」
「航速 80!」
「航路角 1650!」
「準備 3発!」
号令です。観測の結果火砲の取るべき数字です。残念ながら我々の高射砲は旧式で7800米の高さは弾丸すれすれの高さです。敵もさるもの、当方の性能を知りぬいております。
息詰まる一瞬です・・・中隊長の号令を待ちました。

撃てえッー!

撃ちました!撃ちました!砲身も裂けよとばかり撃ちました。

 続いて第二編隊、これも25機です。
第一編隊は滑走路をメチャメチャにしました。第二編隊は格納庫をねたっています。これも撃ちましたが弾丸が届きません。一瞬にして格納庫が吹っ飛びました。
 続いて第三編隊です。これも25機です。兵舎や地上機をねらっています。
弾丸が届かないからとて撃たないわけにはいきません。撃ちました、撃ちましたが駄目です。
 あの立派な兵舎がマッチ箱を砕いて放り上げているように、爆音と火と土とが100米程盛り上がって次の瞬間、100米程の山が潰れ、後は燃える物が火となって兵舎は跡形もありません。凄い光景です。何とも形容出来ません。
敵機はまだ去らず、悠々と旋回して残った物を波状攻撃しています。悔しいがしょうがありません。羽があったら飛んでいってメチャメチャにしてやりたい気持ちです。
 もうよいと思ったのか、第一編隊、第二編隊は支那大陸へと雲の中に消えて行きます。
 すると第三編隊が吾が陣地をねらって来ました。弾丸の届かない事を知ってか、悠々と真一文字に襲って来ます。今更逃げる事も出来ません。撃つには絶好の命中率で、それだけにこちらも全滅覚悟です。
 いよいよ腹を決める時が来ました。命中率は90%です。ただし弾丸が届きません。勿論、砲は敵機をにらんで少しずつ移動します。唯発射の号令を待っています。皆真剣な表情です。静かに動く砲のきしむ音だけです。
「発射 3発!」
力強い中隊長の号令です。
中隊四門の砲が一斉に火を吹きます。続いて中隊長の号令です。
「撃ち終わったら各個安全な場所に避難せよ。」
こんな号令は今までにありません。全滅覚悟の一戦です。中隊長は一人でも助けたいのです。
歩兵ならば突っ込んで行くところです。
相手が飛行機ではどうしようもありません。あと数秒の命です。逃げきれません。
少なくとも横に200米以上逃げなければなりません。
そんな時間はありません。近くのたこ壺に逃げる位で、それも万に一つ運がよければ助かる位です。
「逃げても死ぬなら、もうこのままいよう・・・」
理性ではもう駄目だと思うのですが、不思議と恐怖感がありません。
3人程残りましたが、誰と誰だったか記憶にありません。
高度8000位ですと、爆弾が地上に着くまで15秒位かかります。見ればB29はすでに爆弾を落としております。始めは見えますが、加速度がついて早くなると見えません。
するうちにシャアーシャアーと夕立のような音です。
ああ、助かった!
この音は爆弾が外れて落ちているからです。爆弾と空気の摩擦音です。
「もう大丈夫」と半ば夢心地です。見ればB29はすでに雲に半分消えています。一機白煙をはきながら編隊より遅れています。そのうち雲に見えなくなりました。
 天祐と云うか、神我に味方し給うたか、幸な事に全弾が100米程陣地より横に外れて田園の中に落ちたため、一人の怪我人もなく全員胸を撫でおろしました。
 では、何故爆弾がそれてしまったのか?僅かに人体に感ずるか感じない程の風の為、8000米落下するうちに風の為にそれたが故に助かったのである。生きるも運なら死ぬのも運よ云うべきか・・・
飛行機から爆撃しようと思えば、ある程度、等整行動を取らなければ命中しない。高射砲もそこをねらって撃つのである。だから何をねらっているかよくわかる。B29とB25は照準機の精度がよく、従って命中率も高い。だがB24は精度が落ちる故に命中率が悪い。ただし何処へ落ちるかわからないので、これも怖い。

ただしB29、75機とは大部隊である。
 嘉義飛行場遺憾す
(死傷者 およそ500人)

 全く不意をつかれたのである。油断が無かったとは云えない。翌日飛行場へ行って見て驚いた。実に惨鼻を極めている。惨憺たるものである。
防空壕は何の役にも立たない。死体とて、まともなものは一つもない。木に引っ掛かっているのやら、人間やら動物やらわからない。子供の時、お寺で往生要集の地獄の絵を見て恐いと思ったが、そんなもの比較にならない。ああ、この惨状どう表現するか。実状の一割も表現する事が出来ないので歯がゆい。戦争の悲惨さを知って貰うため、前文を書いて来たが・・・
当時の私どもは長い戦争のため、死者や怪我人を見ても然程驚かなかったが、今あの惨状を見たら、おそらく卒倒するかも知れない。
「人間は考える葦である」と誰かが云ったが、その考える知恵を神や仏から頂いておりながら、こんな戦争をするとは、何と情けない事か。
何べんも何べんも話し合って絶対に戦争は避けるべきである。子々孫々に心して伝えていくべきである。

平成5年1月

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