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【世界文化遺産登録から1ヶ月】日本のゴールドラッシュ、佐渡金山編

結論

明治時代、機械化により生産量が増大した。
港に向けて生産ラインが確立されていた。


2024年7月27日、世界文化遺産に登録

2024年7月27日、佐渡金山が世界文化遺産に登録されました。江戸時代、鎖国している中、高度な精錬技術、手彫りによる生産体制が評価されました。

1603~1989年の約400年間で、金78トン、銀2330トンがとれました。1年前、佐渡汽船が企画したバスツアーに予約しました。佐渡汽船では、金山とトキを巡るツアー、たらい舟と砂金採りを体験できるツアーがあります。

今回は、佐渡金山の史跡を見学した話をします。

明治時代の坑道を見学してきた

佐渡金山は佐渡島北西部の相川地区にあります。佐渡金山では、江戸時代と明治時代の2つの坑道を見学できます。

江戸時代前半に造られた坑道では、手作業による技術の集結を人形とともに解説されています。見学すると30分ほどかかります。

明治時代は道遊坑と呼ばれています。トロッコ、機械工場、粗砕場など多くの設備が操業当時の姿のままで残されています。見学すると、40分ほどかかります。

どっちを観るべきか?

両方のコースを堪能し、お土産まで買うためには、1時間半ほど必要です。しかし、バスツアーでは、45分しか見学時間がないため、両方見ることは厳しいです。

バスガイドさんによると、初めて訪れるのであれば、江戸時代コースがオススメです。世界文化遺産に登録された技術力と生産体制について、学ぶことができます。歩く距離も江戸時代の坑道の方が短いです。

佐渡金山に行く前、静岡県の土肥金山を訪れました。土肥金山は、江戸時代、佐渡金山に次ぐ金の生産量を誇りました。土肥金山でも、江戸時代の坑道を見学できました。そのため、ツアーでは、明治時代の機械化による採掘を見学することにしました。

土肥金山で学んだ江戸時代の金鉱掘りについて、別の機会で話します。

佐渡金山の歴史

江戸幕府も支えた佐渡金山

室町時代、西三川砂金山で砂金採掘を始めました。跡地は佐渡西三川ゴールドパークと言う体験型資料館があり、砂金掘りを体験できます。安土桃山時代、鶴子銀山、新穂銀山の開発を行いました。

1601年、大規模な相川金山が発見されました。徳川家康が関ヶ原の戦いで勝ち、政権を取ると、佐渡を幕府の直轄地にして金銀山の開発を進めました。江戸時代、世界の5%の金が取れ、金400kg、銀40トンを算出しました。

佐渡の金銀だけで、約150年分の財源を確保できました。江戸幕府が長期にわたって安定した要因のひとつです。

近代の機械化による採掘

明治時代、政府が引き継ぎ、採掘が継続されました。政府は西洋から技術者を招き、機械化による採掘を進めました。機械化によって、効率よく鉱石を採掘できました。その結果、生産量が復活するどころか、江戸時代前期のピーク時より増加しました。火薬を使って目の前の岩盤を壊し、レールを敷きながら掘り進めました。

明治時代の坑道の真上には、道遊の割戸があります。道遊の割戸が佐渡金山のシンボルです。江戸時代、山を手で掘り進めた結果、山の頂上が割れて、道遊の割戸が誕生しました。道遊の割戸は、今回の記事のトップ画像に採用しています。

1930年代に建設された機械工場も見学できます。工場内には、1989年の閉山まで使われていた機械が展示されていました。現在も動かすことができるものもあります。

戦後になり、徐々に縮小した

戦後、金が取れなくなり、経営が厳しくなりました。1952年に縮小し、1989年、休山しました。どのくらい金が眠っているか、閉山する前には把握済です。しかし、金鉱石の中に金がほとんど含まれておらず、2倍の費用がかかり、掘っても赤字になることが現状です。

山に沿って造られた生産ライン

採掘場所から精錬、鋳造を経て、製品を運ぶ大間港まで山を下るように、3kmにわたる生産ラインを確立しました。

中間地点に、北沢地区があります。北沢地区は、明治~戦前、佐渡鉱山の拠点になりました。火力発電所で電力を生み出したしたり、採掘や精製など、佐渡金山で使用される機械の製造、修理するための工場も造られました。

緑に囲まれたレンガ造りの建物が天空の城ラピュタのような世界観です。愛媛県にある別子銅山でも観られます。

おみやげコーナーも充実していた

佐渡金山では、坑道、博物館を見学した後、お土産売り場があります。佐渡島の名産品だけではなく純金も販売されていました。


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