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さよならモラトリアム 第11話

 あたしがロイヤル・パレス・ナニワに着いたのは、スミレとの待ち合わせの一時間前だった。薫さんと香奈子さんが開業しているクリニックから、薬を盗み出さなければならなかったのだ。
 いくら五十歳を超えているとはいえ、シュトゥルムフートは男である。しかも、幼い頃の記憶を辿ると、黒沼天雄は身長が百八十センチを優に超える大男だった。非力なあたしが黒沼天雄をやっつける方法は、もう、毒を盛るくらいしか思いつかなかった。
 しかし、その計画はあっさりと頓挫した。去年の暮れから幾度となく世話になってきたあの二人を、そしてスミレを裏切ることが、あたしにはどうしてもできなかったのである。結局、あたしは黒沼天雄に対して薬を使うことを諦めた。


 安物のパーカーと、母校の指定ジャージのあたしとは違って、スミレは白いブラウスにパステルピンクのスカートで、いつにもまして華やいで見えた。
 春の装いのスミレはあたしを高島屋の近くにあるワインバルへ案内した。あたしはこんなお洒落な店を知らない。この店だと二人分は払えないな、と不安になったが、スミレは気にしていない様子だった。
 そこからはひたすら、気まずい時間が続いた。今生の別れになる前に、スミレのことが好きだと伝えたいが、こんなお洒落な店で二人で食事をするだけのお金を持ち合わせていなかったのである。
 あたしは、たまにスミレが投げかけてくる質問に、少し上擦った声で答えながら、出されたものを咀嚼しては飲み込む、ということを繰り返していた。


「マリコ、どうしたん? 伝えたいことがあるって言うたのに、ずっと黙ってる」
 デザートのティラミスとアイスコーヒーを前に、スミレが心配そうに呟いた。このままではただの高級な食事だ。覚悟を決めて口を開こうとしたが、スミレはさらに続ける。
「せっかく、私とマリコが出会って、ちょうど百日目やのに。寂しいなぁ」
「ごめん。こんなあたしと百日も一緒に居ってくれて、ありがとう」
 目一杯格好をつけてみせるつもりが、酷く情けない台詞になってしまった。こんな言葉をだけを残して、スミレの前から消えることは出来ないだろう。
 あたしはシュトゥルムフートが黒沼天雄ではなく、あたし自身も何事もなくスミレの元へ戻れることを強く願った。
 結局、スミレは自分が食べた分どころか、あたしの分の食事代まで払ってくれた。泊まって行かないか、と尋ねられたが、明日は早いから、と嘘を吐いて別れた。別れ際、スミレが思い出したようにあたしに言った。
「計算してみたけど、十二月二十四日から三月三十一日やったら、百日行かへんわ」



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