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さよならモラトリアム 第13話

 家に入ると、「最初の記憶」が蘇ってきた。まだ幼いあたしが母と風呂に入る。風呂から上がると、父が体を拭いて、着替えさせてくれる。
 あの日はクリスマスだっただろうか。台所には母が作った料理と、父が買ってきたケーキが並ぶ。もしかしたらこの頃から、柊百合子と黒沼天雄は不仲だったかも知れないが、あの日はみんな笑っていた。

「本当に、笑えるよな」
 あたしはしばらく黙ったまま、料理の準備を始めていた。どうしたんですか、と聞こうともしたが、今、何かこの男の機嫌を損ねるようなことがあれば、あたしが何をされるか分からなかった。
 いくら五十歳を過ぎているとはいえ、相手は男である。腕っ節ではあたしに勝ち目はない。何も言い返すことはせず、じゃがいもと人参の皮を剥いて切っていく。
「何かは分かんねえけど、何かしらで有名になりたい、って思ってる馬鹿な女にちょっと声を掛けたら、すぐ家に連れて行けるんだもんな。
 俺もおっさんになって、若い女に相手にされないと思ってたけど、こんなに簡単に引っかかる女がいるとはな……。もしかしてお前、男と付き合ったことないとか?」
「そ、そんな訳ないじゃないですか! あたし、もう二十三歳ですよ?」

 あたしはシュトゥルムフート、もとい黒沼天雄にそう言ってみせたが、その態度はまさに「私は二十三歳にもなって未だに男性との交際経験も無い処女です」と言っているに等しかった。黒沼天雄は下品に笑いながら、誰に頼まれた訳でもないのに話を続けた。
「そうだよな。馬鹿なお前を大学まで出してやったのに、無職のうえに、男にも相手にされないなんて、酷い話だよな。あの女のせいだ。あいつは特に性格の悪い女だったよ。香奈子と別れてあいつと付き合ったけど、もう名前も思い出したくないな。その娘も、ここまで落ちぶれたか」


 それ以降も意味の分からない戯言を続ける黒沼天雄をめがけて、あたしは包丁を振りかざした。運動神経の鈍いあたしが包丁を振っても、黒沼は逃げようとも、抵抗しようともしなかった。しかし、人を刺してしまった、という恐怖が、あたしの中に込み上げてくる。
「どうしたんだよ、来いよ。お前の人生なんかとっくの昔に終わってるんだよ。このまま消化試合みたいな人生送るんだったら、俺一人ぐらい殺したって変わんねえだろ」
 黒沼の言葉を聞いて、あたしは止まらなくなった。そのまま、黒沼を滅多刺しにしていく。先程脚を刺されて動けなくなったのか、抵抗しなくなっていた。何度も、何度も刺していく。この男の言うとおりだ。一人殺したところで何も変わらないだろう。

 あとは死ぬのを待つだけなら、すぐに実行した方が良い。どうせ、一度は死のうとした身だ。別に、あたしのことを待っている人ももういない。
 そんなことを考えながら、あたしは黒沼の家の中を物色した。柊家と全く同じ位置にある戸棚からは、三か月と少し前にあたしが飲んだものと全く同じ風邪薬と鎮痛剤、そして睡眠薬と精神安定剤が出てきた。
 そう言えば、シュトゥルムフートは精神科に通院している、と言っていたが、そんなことはどうでも良かった。二百錠近くを、冷蔵庫に入っていた缶ビールで一気に流し込んでいく。
 今度は誰も止めることはなかった。苦しい。込み上げてくる吐き気を抑えようと、あたしは血まみれの床に横になって、遠のいていく意識に身を委ねた。



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