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さよならモラトリアム 第2話


 目を覚ますと、時計は午前九時を差していた。今日は面接の予定などなかっただろうかと不安になったが、枕元に置いてあったメモを見て、それ以上の問題に気付いた。
 あたしは今日、この家を出ていかなければならない。母のメモには、もし自分が帰ってきた時にあたしが家にいた場合には、警察に突き出すとまで書いてあった。
 嘘のような現実に気が付いて、あたしは荷造りをすることにした。高校の修学旅行のために買った黒いスーツケースに入ったのは、就職活動のために買ったリクルートスーツ、白いシャツ二枚、下着三組、ベージュのストッキング三足、寒さ対策用の黒い厚手のタイツ一足、黒いパンプス一足、小分けの洗濯洗剤、シャンプーとリンスとボディソープの小さなボトルと剃刀が入った旅行用のお風呂セット、白紙の履歴書二十枚だけだった。
 リクルートスーツと合わせて買った黒のバッグになると、もっと入る荷物は少ない。二つ折りの黒い財布を筆頭に、折り畳み傘、大学ノート、ペンケース、歯磨きセット、化粧ポーチ、携帯電話の充電器を入れると、もうバッグはいっぱいになってしまった。持って歩くには大荷物だが、これだけで新しい生活を始めるのは、ひどく心許ない。
 しかし、目一杯この状況をポジティブに考えてみれば、今日はあたしの新しい人生への第一歩である。そんな風にでも考えないと、心が持たなかった。先程まで着ていたジャージを脱いで、スーツケースの隙間に入れる。ファスナーがゆっくり閉まるのを確認すると、あたしは着替えることにした。新たな旅立ちに部屋着では寂しいだろう。
 そう考えて、あたしは黒い男物のパーカーと、ウエストがゴムになったロングスカートを身に着けた。胸より前に出るお腹と、太い脚を隠すためだけの服である。その上に、安いベージュのトレンチコートを着て、古いスニーカーを履くと、あたしは家を出た。

 さて、どこへ行こうか。とにかく遠くへ、出来ることならば人の多いところへ行きたいと思って、あたしはスーツケースを引きながら駅へと向かい、電車に乗り込んだ。あたしはほとんど誰もいない車内の長椅子の端に座って、スーツケースを脚で押さえると、携帯電話のスリープを解除した。
 誰も見ないはずのミニブログに、たった一言、「大丈夫ですか?」とだけ、返信が付いていた。アイコンは白衣を着た若い女。
 かなり容姿が整っているところを見て、どこかから流用してきたモデルの写真かと思ったが、白衣とはアンバランスなプラチナブロンドのボブカットが、本人であると物語っていた。
 ハンドルネームは「椿スミレ」。プロフィールを見ると、難波でフリーランスのカウンセラーをやっている、とのことであった。
 どんなつもりでコメントしたのかは知らないが、殺されたところで、一度は自ら断とうとした、今更惜しくもない命である。これからの人生など、どうせ消化試合だ。
 金目当てだとしたら、こんな貧乏フリーターを狙うのはお門違いだ。そう思って、あたしは素性も知らない椿スミレに返す言葉を打ち始めた。

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