さよならモラトリアム 序章
目を覚ますと、あたしは真っ白なシーツの海の中にいた。
ここ数日、辛いことばかりが続いて、ひどく疲れていた。そのせいで、ほとんど眠れていなかったのだ。もう十何時間も眠り続けていたような気がする。
同じ色の重い羽毛布団を掻き分けて起き上がると、ベビーピンクのパジャマと、白いガウンに身を包んだ椿スミレが温かいコーヒーを入れてくれていた。
「今、何月何日の何時何分?」
「十二月二十五日の、朝七時。ここへ来てから、まだ十時間も経ってへんかな」
慌てて尋ねたあたしに、スミレは優しく言葉を返して、あたしが先程まで眠っていた白いベッドに腰掛けた。スミレの細い体越しに、大きなガラス窓がある。窓の外からは雨に煙る繁華街が見えた。
「ここは、どこ?」
「ロイヤル・パレス・ナニワの四八〇一号室。私の家よ。住所で言うと大阪府大阪市……。中央区と浪速(なにわ)区の間くらいかな」
とりあえず、大阪からは出ていないようだった。それでも、色々なことが起こって頭の中が散らかっていたせいか、ここに来るまでのことがうまく思い出せない。
目の前にいる美しい女性が「椿スミレ」ということは、この目で認識していたが、あたし自身の体だけが、どうも自分のものではないような気がした。
「あたしは、誰?」
自分でも、なぜこんなことを聞いたのかは分からなかった。もしかしたら本当に、あたしの頭はおかしくなってしまったのかもしれない。もっと言えば、ずっと前から、あたしはおかしかったのかもしれない。
そんなあたしの葛藤など何も気に止めることなく、スミレは答えた。もしかしたら、気に止めるそぶりを見せなかっただけかもしれないが、そんなスミレの態度が、自分の愚かしさのために荒みきったあたしの心には、ちょうど良かった。
「柊茉莉子(しゅうまりこ)。あなた、昨日私に依頼をしてくれたでしょう」
シュウマリコ。この名前を使い続けて二十三年が経つまで、あと六日。それでも、あたしはそれが自分の名前だという実感が湧かなかった。
まるで、何かの映画や、小説の主人公の名前を、勝手に名乗っているように思えた。ぼんやりするあたしに、スミレは言った。
「まだ何も、始まってへんのよ」
スミレが何を言っているのか、あたしはしばらく理解が出来なかった。ふわふわした体にコーヒーを流し込んで、ふらつく頭で考えこむ。
いったい何が本当で、何が幻なのだろうか。彼女の真意に気が付いた時、あたしはようやく安堵した。
まだ何も、始まっていないのだ。
四月一日午後四時ごろ、大阪府梓山市朱橋(あずさやましあかいばし)の民家から、男女の遺体が発見された。
近隣の梓山警察署によると、同日の昼頃、二人の遺体が見つかった民家から、男女の争う声と、不審な物音が聞こえたという通報があった。
大阪府警により、遺体はこの民家に住んでいた無職の黒沼天雄(くろぬまたかお)さん(五十五歳)と、黒沼さんの知人である藤島市徳大寺町(ふじしましとくだいじちょう)のアルバイト、柊茉莉子さん(二十三歳)と判明した。
黒沼さんの遺体は全身を七十か所近く刺されており、柊さんは血液の付着した包丁を握っていた。
また、柊さんの服には血液型の違う大量の血液が付着していた。台所には精神安定剤、睡眠薬、頭痛薬など二〇〇錠近くの空き容器があり、成分が柊さんの血液と一致したことから、柊さんが黒沼さんを刺殺後、後追い自殺をしたものと考えられている。
黒沼さんと柊さんは二か月ほど前にソーシャル・ネットワーキング・サービスで知り合い、黒沼さんは「シュトゥルムフート」、柊さんは「愛純紫蘭(あすみしらん)」というハンドルネームを使用していた。
警察は黒沼さんと柊さんの間に何らかのトラブルがあったものとみて、詳しい捜査を進めている。
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