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コミュ障なのかと思っていたら、感情と向き合うのが苦手なのだと気がついた話

ずっと自分のことを「コミュ障」だと思いながら過ごしてきたが、どうも違和感があった。仕事で何か目的が明確な場合には、割とすんなり行く。言葉に詰まることはなく、別に挙動不審な訳でもない。(自称)

対照的に、目的がよくわからない場合には、途端にポンコツになってしまう。その際たるものが、雑談などの他愛もない日常会話だろう。そこには、会話の目的はない。会話自体が目的なのだ。いい歳した大人ながら、私はこれが苦手だ。

「コミュ障を克服するには」だとかのトピックで検索すると、だいたい出くわすのは「相手に興味を持とう」というアドバイスだ。これはある種、本来は目的のない日常会話に目的を設定するものだと考えることもできる。(「よし、興味を持つぞ」と意識して変われるのであればどんなに楽なことか...)

それはまぁ理解できたとして、私にとってより厄介なのは、そうした無目的の会話に生じる「感情」という側面だ。目的のない会話が苦手と言うよりも、感情と向き合うのが苦手なのではないかと最近思うようになった。

目的のある会話では、何かしらの合目的的な論理性が重要となる。一方で、目的のない会話には論理性は重んじられない。何かを解決するために会話をしている訳ではなく、ただ会話をするだけだ。翻って考えれば、日常会話とは非論理的なものが(仕事などの目的のある会話よりも)多いとも言える。そして、そのような会話には、話者の感情が付き纏う。

もちろん、喜びや楽しさを分かち合えれば、それらは増幅し非当事者もポジティブな感情に浸ることができる。実際、私自身もこうした感情の共有は素晴らしいことだと感じる。
一方で、怒りや悲しみなどのネガティブな感情も非当事者に共有される。話者の立場や出来事、そして感情を相手に共有して、共感してほしい──。そうして感情を発露し合うことで、支え合いながら生きていくことができるのだろう。

なんと素晴らしいことかと思う反面、ネガティブな感情に向き合うときには、なんだか、よるべの無い気持ちになる。どうすればいいのかよくわからなくなる。論理的に「解決」できる問題ではないから、なにも解は出ない。こうして、言葉を発することに窮してしまう。(何か言葉を発したとしても、それはエンパシーやシンパシーからというよりは、頭の使い方が論理的思考になっているように感じる。)

そして、モヤモヤは残り続ける。

感情の昂ぶりや、いざこざが苦手だ。
個体の性質としての自分の脆さが、自己防衛本能を即座に働かせてしまう。

そうして、人の心から距離をとっていく。

こうやって書き殴ったこの文章も、感情の発露なのだろう。

──智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

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