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AIについての備忘録

AIの技術革新が目覚ましい。昨日見たニュースによると、「Microsoft 365 Copilot」を使えば、ちょっとした指示でメールの文章やプレゼン資料を作ってくれたり、議事録を取ってくれたりするらしい。素晴らしい機能である。

一方、Twitterで見かけた「GPT-4搭載のすごい自動ブログ生成ツールもあるよ!」という内容のつぶやきには、やや倒錯を感じてしまった。というのも、私にとってブログとは個人の自己表現のツールという意味が第一義であり、そこをAIが置き換えることの価値が理解できなかったからである。もちろん、この「すごいブログ生成ツール」発言の裏には、金儲けのためのコンテンツとしてのブログが想定されていることは理解している。ブログ記事に広告枠でも貼って儲けようということなのだろう。

しかしよく考えてみてほしい。凄腕のAIブロガーが人が好みそうなテーマ、文体で大量のページを自動生成し、多くの人々がそのコンテンツの閲覧に時間を費やし、ブログ運営者にはお金がチャリンと入ってくるという世界は、ちょっとディストピアっぽくないだろうか?

これをディストピアと感じてしまう理由は、私が「表現のプロセス」を面白いと感じているからである。最終的なアウトプットにおいて、AIが書いたものの方が多くのPVやお金を集めたとしても、そこに「その制作プロセスを楽しんだ人間」は不在である。文学や芸術でも同じで、現代人好みの小説やアート作品をAIが作成する日も近いと思うが、せっかくの芸術を作る楽しみをAIにまかせて、人間は幸せなのだろうかと思ってしまう。

スポーツなんかも同じかもしれない。スポーツに感動するのは、その試合までに選手が費やしてきた時間の蓄積があるからであろう。いろいろな試合のパターンから最も感動する試合展開を推測させ、そのシナリオ通りにプログラミングされたロボットが試合をしたとしても、それはあまり意味がない。人にとってスポーツをすることがまず楽しみなのだという前提が置き去りにされているのである。

これからますますAIを活用したサービスは増えていくだろう。基本的には期待の方が大きい。しかしそのときに「人間の幸せとはなにか」「AIで効率化を進めてどのような世の中を作りたいのか」という視点を忘れるべきではない。AIが生み出した時間の余白を、さらにどうでもいい仕事で埋めてしまっては、人生に彩りは生まれないと思うのだ。

花を愛でたり、音楽を奏でたり、手の込んだ料理をつくったり、単に「効率的に生きる」という意味では不要なことをやってしまうのが人間なのだと思う。そういった人間の可能性を後押しするものとしてAIが活用されていくとよいなと思う。

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