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[ Chapter 2 ]「名前のない痛み」という社会へのAntithese.

◆1

TEARDROPSを一言で表す言葉は何か?
そう聞かれれば『名前のない痛み』だと答えるだろう。

「名前のない痛み」

それは、生きづらさを何でもかんでも名前をつけて分類しようとする現代社会へのAntitheseでもある。

私もとある学生団体のリーダをしているときに散々言われた
「ちゃんと言葉にしなさい」という言葉

この一言に現代が抱えている生きづらさの全てが詰まっていると、私はそう思う。

名前にしないと、自分の持つ痛みさえにも気づいてもらえない。

見える痛みにしないと、私が辛いってことに気づいてもらえない。

でも、不登校、HSP、LGBTQみたいに、痛みを言語みたいに名づけて分類したところで、生きづらさは何も解決しないのだということは、全く議論されていないように思う。

むしろ痛みを名づけて分類することで

「お前は同じ痛みを持っていないだろ。あっち行けよ」

そうやって野次を飛ばされる可能性だってある。

でも、同じ名前の痛みを持っているから、必ずしも痛みを共有できるとは限らない。

「同じだけど、どこか違う」

そうやって名前の括りから溢れてしまった人が必ず存在する。

私がその括りから外れていた時、それを癒してくれていたのはNHKの「#8月31日の夜に」という番組に出ていた不登校生の子たちの発する言葉だった。

その時、違う痛みを持っていても、痛みの名前が違っていても
お互いを癒しあえるのだと、そう感じた。

この体験が、TEARDROPSが持つ

「全く違うものでも、必ず同じものがあり、全く同じものでも必ず違うものがある」

という特殊な組織文化に繋がっている。

TEARDROPSは「●●な痛みを抱えた人のための団体」と言っていないからこそ、多様な名前のある痛みを抱えた人が集まることが可能であり、お互いに中庸な立場で関わり合えるのである。

◆2

そもそも「名前のない痛み」がなぜ生まれるのか。
私は現代の科学主義・効率主義・合理主義の負の副産物として生まれたものだと思う。

科学とは「分類し」「名付け」て発展してきたものだ。
しかし、それは人間が世界を分けて見ないと、世界を見ることができないからである。
世界を分けて見ないと、コミュニケーションをとり社会生活さえできないのだ。

だが、世界は本当は分かれてはいない。
そんな大前提を踏まえて社会生活できている人は、ごく僅かである。

◆3

では「名前のない痛み」は、どうすれば癒されるのだろう。

私はその1つに「統合性を感じる体験をすること」が大事なのではないかと思っている。

禅や茶といったような日本特有の文化に多く触れている人は、世界が無分別であることを知っている。世界が無分別であることを知りながら分別を行っている。

だが現代人の多くは科学に触れる時間が多くなったことで、世界はそもそも初めから分別されたものであるという認識を持つようになった。

もはやそれはかなり進行しつつあるように思う。
宗教離れはすなわち日本文化離れを意味し、それはすなわち統合性の消失を意味している。

これが、現在社会に潜む生きづらさの根本である。
生きづらさを名前で分類する必要などなくて、全ての要因はここにある。

私はTEARDROPSの事業の1つとして「お寺」を活用することに決めた。

2022年6月に行ったDeahCafeの様子

「生きづらさを抱えている人が、統合性を回復する」

お寺にはそんな可能性があると本気で私は思っているが「政教分離」だとか「死ぬ」ことを意識しなくなった現代人にとっては総じて「アヤシイもの」として捉える傾向があるようで、この事業の本質を理解してもらえるのはだいぶ先であろう。

[続く]

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