見出し画像

キセキのロックバンドのキセキ③ ソウ編

この連載コラムで紹介しているロックバンド「ソーセージ」は、年間250本ものライブをこなしながら全国を回り続け、魂の歌を届けてきた。

この本数のライブをこなしながら全国を回ることは、生半可な気持ちだけでできるものではない。
体力的なことはもちろん、見知らぬ各地のライブハウスでファンの心を掴まなければ、プロとしてバンド活動を継続することは難しいからだ。
 
彼らはそれを各地で実現しながら、東日本大震災の被災地の人を励ますために、儲けを度外視して音を届け続けてきた。

ロックバンドという言葉の定義は、人それぞれ違うだろう。
しかしその愚直で真っ直ぐな在り方を間近で見ていて、彼らは正真正銘なロックバンドだと私は思っている。

画像17

そんなソーセージのメンバーの素顔を追うことをコンセプトに、ステージでは見せない彼らの姿を描くプロジェクト「B-side Story」
今回は、人を笑わせながら超絶なギタープレイをいとも簡単に披露するアカレンジャーこと、平野壮(ひらのそう)に迫ってみた。

このプロジェクトでは、3人のメンバーもそれぞれnoteを連載し、自分史を書き綴っている。音楽との出会いや思いなどはそちらを読んでいただくとして、ここでは自らを「ドラマ人間」と語る彼の人間像にフォーカスしてみたい。

自己承認欲求と反面のニヒリズム

壮は、彼の言葉でいえば「超右翼」の祖父、その反動で「超左翼」の劇団員だった両親とのあいだに静岡県で生まれた。

そうちゃん2

左がソウ。ガッチャマンのヘルメットをかぶっている。

そんな彼は、子どもの頃から自我を強く意識しながら育ってきたという。
同時に連載しているソウのnote「ヒーローになりたかった少年の唄2021」でもそれが触れられているので、併せて読んでほしい。

幼稚園の頃から自分のオリジナルで勝負したいと思うような、いうなれば「自己承認欲求」が無茶苦茶強かったんです。

小学校で鼓笛隊に入ってからは、人と同じパートを演奏するのが嫌で仕方なくて。そこで静岡まつりというお祭りに出演したとき、ここぞとばかりにソロ演奏を吹きまくって、先生に首根っこを掴まれて退場させられる、そんなガキでした。
その後、小学校になって祖父と親が同居するようになり、その生活も自分の人格形成に大きな影響を与えましたね。
家でそれまで仲良くごはんを食べていた祖父と父が、思想の話になるといきなり包丁が出てくるようなケンカが始まったりする(笑)。とにかく毎日事件が起きるような環境でした。

それと3年生くらいから文学やSFに目覚め、筒井康隆や太宰治、三島由紀夫まで読み漁るようになり、厭世感、ニヒリズムみたいなものを強く感じている早熟な子どもだったんです。
こうした経験から、本質的なものを求める気持ちが小学校5年生くらいから一気に押し寄せてきたんです。
それは決して間違っていない、という信念だけはありましたけど、周りは子ども扱いして相手にしてもらえない。

その「歪み」のようなものから中学からはさらに悪ガキになって、いろんなトラブルやしがらみに自分から首を突っ込んでいくような感じで、
いろいろヤンチャもしました。

でもいつもどこか空虚で「なにか違うんだよな」と感じていたとことろがあります。

僕は、生い立ちからふくめ、どこか「孤独癖」みたいなところがある人間なんだと思います。一人でいることが寂しくなかったんですよね。

だから先輩とかには挨拶もしないし、つるむことがない。可愛げがないから衝突もしたりして、疎遠になっていく。そんなことの繰り返し。
でもそれが強烈な自分のオリジナリティを形成してきたと思います。

厭世観の塊だった「がきおやじ」時代

そんなソウは、18歳のときに上京、19歳で3ピースバンド「がきおやじ」を結成。
関東を中心にライブを重ねながらTVやラジオ出演などもこなす人気バンドとして実に20年、ソウが39歳になる2011年まで活動を続けてきた。

そうちゃん4

がきおやじは圧倒的なリーダーでフロントマンであるソウの世界観を表現するバンドだったが、その世界観は、今のソーセージとは全く違うものだったという。

話したとおり、若いころの自分は早熟で、厭世観の塊で、死ぬことも全く怖くなかった。「がきおやじ」の名前も、ガキのくせにおやじみたいな世界観をもっていることからつけたんです。

ライブも「聴きたいなら聴かせてやるよ」みたいなスタイル。
時代はバブルでしたけど、自分はそんな世の中の欺瞞に牙を向いていましたし、世の中に自分が必要とされているなんて全く思っていない。
とにかく自分の世界観をただ表現できればいい、そんな感じでした。

現場では、30そこそこのそんな生意気な自分に先輩がいろいろ文句を言ってくるんですが、酒が入ってすぐにケンカになる(笑)。
まあそんなことばっかり繰り返してましたね。本当に嫌な奴だったと思います。
 
でも自分では、少年時代に読んだ太宰など、昭和の初期に喘息や結核を患いながらも命をかけて作品を作った、その芸術性へのリスペクトからそうした曲を作ってましたし、チャラチャラした世俗などやってたまるかという思いが強かったんです。

正直なところ、このプロジェクトで彼のnoteを読んだり、この話を聴いたりするまで、いつも楽しそうなソウが、想像以上に大変な自分史を送ってきたことも知らなかった。

しかしこの話を聞き、ソーセージから感じる「パンクスピリット」の一部が彼のこうしたキセキ(軌跡)からきていたのだと分かった。

「自分を生かしてくれた」いくつもの出会い

厭世観の塊で、世の中に怒り、ツバを吐いていたソウ。
しかしそんな彼がいま、過去を振り返り、自分を生かしてくれたと語るキセキ(奇跡)が立て続けに訪れることになる。

まず最初は現在のパートナーである堀江奈津代さんとの出会い。15年ほど前、がきおやじのライブに来て以来、彼が「ソウルメイト」と呼ぶようなつながりである。

そうちゃん7


ポールマッカートニーのグラスウォールという動画で屠殺のシーンを観たことをきっかけにヴィーガン(菜食主義)やヨガの精神世界へ突然傾倒した奈津代さん。

なんの起業経験もないが、その思いを体現し伝える場所として千葉県茂原市でヴィーガンレストラン 「Sweet & Peace(すいぴ)」をオープンした彼女に、ときに彼女にヨガや精神世界の著作を読み聴かせる教師のような存在として、また、築130年の古民家である建物をレストランとしてリノベーションする自称「用務員」としてサポートしてきたという。

彼女との関係が、ソウが本質的に感じていたことを裏付けながらも、結果として彼の心を癒やしていったことは想像に難くない。

すいぴ

ふたつめは2011年3月11日の東日本大震災
なんとこの日は、彼が青春時代をほぼすべて費やしたがきおやじの解散日だった。SNS上でその発表をした数時間後に、あの震災が日本を襲ったのだ。
 
翌年の2012年、ソーセージを結成して2本目のライブで、石巻に行った彼らは、1年経ってなにも変わらない更地の街を日和山公園から眺め、号泣したという。

そうちゃん11

まだ仮設住宅も集会場もない石巻で、ライブ会場はボロボロの公民館と小学校のロビー。
彼らは持ち歌のすべての歌詞を、被災した人々へのエールに変え、渾身のライブを大成功させた。
このときの感動的な様子をメンバーのセイジがnoteに書いている。

そうちゃん9

そうちゃん10

その後も彼らは東北の支援活動を継続して行っているが、この経験が、死をも恐れず、厭世観に染まりきっていた彼に「生きることとはなにか」を痛烈に突きつけたそうだ。

そして3つ目は現在のバンドメンバーとの出会いである。
特に初期ソーセージメンバーのセイジとの出会いは、ソウにとって大きかったようだ。その関係を彼はこう語る。

画像11

画像13

そうちゃん8

画像15

画像16

簡単な言い方してしまうと凸と凹、みたいなもんですかね。

友達の結婚式でお互い会ったときはそれぞれソロだったんですが、すぐに意気投合し、二週間後に金沢のライブに呼ばれたんです。
それから1年半くらいしてからソーセージを結成することになったんですが、彼から学んだのは「音楽はハッピーでなきゃ」という考えです。
曲を作るコード進行ひとつでも、セイジは「終わりはメジャーコードでハッピーに終わるべきだ」というような感じなんですよ。
 
もとは「北陸の暴れん坊」って人に付けられてたセイジが、東北の支援活動を経て、ソーセージ結成後5年目くらいから「Happyman」と名乗るようになった。

でもね、そもそも他人が「暴れん坊」と名付けたヤツですよ?
元からハッピーなやつだったら自分でハッピー名乗らんやろ!?って思うんです。それはアイツの「ハッピーになりたい願望」じゃろと(笑)

ただ、そんなふうに深い自分史を乗り越えて、それでも「ハッピーマンでいようという修行」をがんばるセイジに、自分も大きな影響を受け、リスペクトしています。

がきおやじの頃は、人の後ろでただバッキングやる役割なんて絶対イヤだと思っていたけど、ソーセージでやってみたら「人の後ろで弾くのって楽しいんやな」と分かったり。


また、自分は旅をしながらライブをするというスタイルはほとんどなかったんだけど、セイジはとにかく旅回りで生きてきたミュージシャン。

先輩方から、旅先での所作とかを叩き込まれていて、先輩という存在を気にしない自分にとっては新鮮な驚きだったんです。

そんな旅を続けているうち「なんや、三島由紀夫よりも東海道中膝栗毛のほうが楽しいやないか」ってなってね(笑)
まあとにかく、彼と出会ってから、自分のミュージシャンとしての人生が大きく変わったのは間違いないですね。

人との出会いによって人は変わる。
彼の自分史を聴いていると、その不思議さと奥深さを感じる。

そうちゃん6

B-side Storyでのオリジナルソング

今回のB-side Storyでは、3人のメンバーがそれぞれオリジナルソングを出すのだが、ソウは彼のnoteのタイトルにもなっている「ヒーローになりたかった少年の唄2021」をリリースする。

ガッチャマンのヘルメットをかぶった冒頭の写真。
今のようにスマホがないうえに、ほとんど少年時代の写真が残っていないソウにとって、実家で見つけたとても貴重な1枚だという。
この写真を見ながら作ったのが「ヒーローになりたかった少年の唄」で、がきおやじ時代の代表曲として歌い続けてきた。

「少年はいつかヒーローに ヒーローになりたかった」というシャウトからはじまる、少年時代の彼そのものを描いたこの曲。

それを今回新たにアレンジし、ソウの49回目の誕生日である7月3日(土)、すいぴでリリースパーティーを開くそうだ。

画像9


このときに初めて公開上映される同曲のMVは、一緒に東北を回ったクルーの村橋茜 が撮影・制作。最新のカメラや編集技術で美しい映像作品に仕上がっているという。
この美しい映像を見てもらうために、すいぴには今回最新のプロジェクターが導入されたとのことで、観るのが楽しみだ。

そうちゃん12

MV撮影の日。右から村橋茜、奈津代さんのお母さん、奈津代さん、ソーセージのサポートbassでともに東北支援を続けている北上音楽祭代表の井戸雀琇、メンバーのナオト。

今回このインタビューで、孤独癖があり、世の中に怒り、人を遠ざけていた彼の自分史が本格的に変わりだしたのは、この十数年の間だということが分かった。
 
いま、彼の周りにはたくさんの仲間がいる。
「ようやく自分の感覚が、年を経てしっくり馴染んできたというか、無理しないでいられるという感じになっているんです」と語るソウ。
 
7月3日、40代最後の1年が始まる。 
ヒーローになりたかった少年が、本当の意味でヒーローになるのは、これからなのかもしれない。

そうちゃん13


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?