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映画『セメントの記憶』感想リレー②

道路工事で狭まった近所の道を通るとき、懐かしい匂いがして思わずいっぱいに吸い込んだ。

夏の蒸し暑さに紛れた、セメントの匂い。

街中のいたるところに建設現場がある。ベイルートはそんなところだ。

映画の中で”セメントの匂い”は、レバノンの建設現場から帰った父の旅人の証、そしてシリア内戦のさなかに生き埋めになり味わう心を蝕むものとして登場する。

シリアから職を求めて、兵役から逃れてレバノンに働きに来る人々。内戦の続く故郷にいるよりも本当に良い環境なのだろうか。そう疑問に思うほどの彼らの外国人労働者としての生活は、現実から逃れるように急速な開発で建てられる高層ビルの上と、地下の寝床との行き来。

けれど彼らはシリアの内戦が終わったら国に戻り、再建するという。

苛酷な労働環境でかわいそう、けど戦地にいるよりはましなのかもとか、そんな環境で働かせるレバノン人はひどい、とかではない。彼らは皆、破壊と再建の繰り返しが日常化してしまった地域の混沌のなかで、生きる道を選択しているだけのように感じる。

けれどこの破壊と再建の連鎖を、この地域はそんなものだ、で済ませるのはもう十分だ。

なぜならこの矛盾と混沌は決して彼らの責任ではないから。

『セメントの記憶』はそんなことを丁寧に解説はしてくれない。レバノンで働くシリア人たちの生活の大きな一片に、静かに、力強く、観るものを引き合わせる。

戦争と重機の騒音と、ビルの上下に広がる空と海の静けさ。そのぶつかり合いを突きつけられたとき、何を想うだろうか。

(文・大竹くるみ)


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