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【#5】燕三条の気質・関係性

さて前回記事【#4】では、燕三条地域に元来より備わる気候・地形や
それに伴う恩恵・災い、そして人々の営みの歴史など、燕三条地域のいわゆる「先天的要素」を丁寧に紐解いてきました。

今回はその先天的要素が、現代の燕三条の人々の「気質」や、燕市・三条市の「関係性」にどのような影響を及ぼしたかについて、迫っていきたいと思います。

先天的要素が現代の燕市・三条市の「気質」にもたらした影響について

①燕市

治水前まで、毎年の様に信濃川の氾濫による洪水に悩まされた地域であったため、農作地の開墾もまともになされず、江戸時代まではいわゆる「見捨てられた」地域といっても過言ではなかった

燕市産業史料館 主任学芸員 斎藤優介氏よりヒヤリング

急峻な山を下ってきた信濃川が越後平野にぶつかり、さらに河川流域が進行方向右側に迂回しているため、ひとたび信濃川の水量が増すと、海に向かって低地方向に位置する燕地域の堤防が決壊し、同地域一帯が水害になりやすい地形構造にありました。

信濃川の増水時には、低地方向にある燕市側が水害になりやすかった

よって、現在の燕市が位置している土地は、あまりの水害の酷さから、藩をはじめとする地域を統括する機能の管轄外に置かれていました。
また、地域において財力を蓄え、実質的に地域経済を統括するような目立った名士の存在もなかった地域だったと聞きます。
そういった事情から、危機や環境変化の際は、権力者に頼ることなく、地域住民同士が弱きもの・小さきもの同士で団結して危機を乗り越える文化が自然と醸成されていきました。
洪水で苦しんだ土地であったため、皆で食べていくために金属加工産業という独自の産業がこの地で生まれました。また外部環境の変化に対して、当時主力であった金属製品は幾度となく需要の衰退を迎えました。そのたびに、製品を変え、違う分野に変化する「横のピボット」を何度も行えたことも、燕地域の危機を乗り越える文化が色濃く反映されていたと考えられます。
そして、燕市の産業史、大河津分水の歴史やこの地のために尽力した先人の背中を伝える文化があり、燕の人間であるということ、この地域にいる意義を多くの住民が感じており、横のつながりが強いといえます。
気質としては、行動力があり、石橋を走って渡る、気風がよくて感情をダイレクトに伝えるところがあり、これらも燕市の歴史から培われました。

②三条市

一方、現在の三条市が位置している場所は、信濃川を挟んで燕市と反対側にあります。燕地域が洪水被害を受けやすいことの背反として、山手方向に位置する三条地域は、洪水の被害は相対的に軽くなる構造にありました。

1896年横田切れ水害時の浸水範囲(水色)
現在の燕市のほぼ全域が浸水しているのに対して、三条市側は比較的浸水範囲は少ない
https://www.hrr.mlit.go.jp/niikoku/bandaibridge/pdf/bandaiayumi.pdf

そのことから、燕市側とは異なり、三条市側の土地には譜代・親藩大名が統治した村上藩が管轄し、厚い加護を当時から受けていました。五十嵐川と信濃川の水運に恵まれて川港としても重要な位置を占めていたこともあり、三条の地は流域随一の町場として発展を見ました。

三条地域は村上藩が統治し、信濃川・五十嵐川の分岐点周辺が重要な川港町として発展した

この地の商人、いわゆる「三条商人」は、藩の許可のもと、藩領を超えて商売をする手続きが容易でした。全国からニーズや情報を多く集められたことから、歴史に執着せず、問屋商い魂で先の時代を見る先見性に長けていました。
気質としては商売人らしく、石橋をたたいて渡り、商談慣れしているせいか腹の内を見せず感情を素直に出さない側面があるといわれています。

燕三条の先天的要素が気質にもたらした影響 まとめ

以上のように、同じ新潟人としての共通気質がありつつ、同地域にもたらした信濃川洪水・治水の歴史により、隣接する燕・三条は、それぞれ独自の気質を持つことになりました。

燕・三条の関係性の変遷

江戸~明治~大正時代

燕市と三条市の力関係は時代とともに変わってきました。
大河津分水が完成した大正時代までは、三条市が燕市よりも力を持っていたと考えられます。なぜなら、前述した通り三条市は村上藩の保護のもと、全国に販路を持ち、販売する権利を独占していたからです。村上藩が消滅し、独占販売権が消滅したあとも、水路流通を抑えており三条商人の支配は長く続いたとされます。そのため、燕市は自分たちの製品を他地域に売る権利がなく、三条に買いたたかれ薄利で作るしかありませんでした。さらに洪水による水害続きで陸路整備ができず流通を行うことはもちろん、生きていくだけで精いっぱいでした。

昭和時代

昭和に入り、2市の関係に変化が訪れます。依然三条市の力が強いものの、大河津分水完成により水害が激減した燕市では農業が発達し、生活が豊かに、楽になりました。陸路の交通網も発達し、高度成長期には円安効果で洋食器輸出が全盛期を迎え、金属産業が大きく発展しました。
このように燕市の三条市への依存度は下がったものの、洋食器をはじめとしたBtoCビジネスが主流だったため販路は重要で、三条市が持つ金物問屋、商社の支配力が依然継続していることに変わりはありませんでした。

平成以降

そして昭和から平成にかわる頃から、燕市と三条市の力関係は同等になります。
1985年のプラザ合意による急激な円高を機に、燕市がBtoB(部品・金型)にメインビジネスをシフトし、燕企業独自での販路開拓が成功しました。三条への依存度が激減し、長年の三条からの支配から離れたいという意識が働いていたと推察されます。
 一方で、ものづくりの基盤が相対的に薄い三条としては「燕三条」として生き残りを模索する道を選び、主体的に「JC統合」「燕市三条市の合併提案(燕住民が否決)」「燕三条ブランド立ち上げ」「工場の祭典」を仕掛けていったのも三条市でした。

燕と三条の関係性の変遷
徐々に燕が三条支配から離れ、力関係を変えていった

このような、近接しながらも複雑な歴史を持つ燕市と三条市は、特に燕市の年配層の方々にとっては、いまだに「三条人」に対する敵対的な感情を持つ人もいらっしゃいます。
しかしながら一方でそのような因縁関係を知らない中堅層以降の世代では、JCをはじめとする企業間のかかわりを通じて、燕・三条垣根なく一体となって新たな取組が始まっています。
近年燕市が力を持ち始めた新たな関係性の中で、三条市主導でできあがった「燕三条」としての協業体制が、燕三条の産地型産業クラスターのさらなる発展に寄与しています。

燕三条で培われた気質のまとめ

燕三条で培われた気質は、共通気質と燕市・三条市独自の気質の
2階建て構造になっている。両市の気質の違いによる衝突が内在しながらも、燕気質・三条気質が共存することにより、両者が違う強みを持つことによる補完関係が成立しているという特殊性があります。

燕三条で培われた気質のまとめ
共通気質を持ちながらも、燕気質と三条気質の二段階構造になっている

両市の共通気質

①我慢強さ
・豪雪地帯・短い日照時間の中で、困難・苦難に対する「我慢強さ、忍耐力」

②共存共栄の連帯感
・米・海産物が豊富に取れ、何もしなくても食べ物に困らない土地柄であるが故の「競争意識の低さ」
・豊かな四季、食べ物の恵み、人柄の豊かさがあることによる「地元愛の深さ」
・雪深い冬に、除雪作業など「地域で協力してやっていくことが当たり前というマインド」
・住民の大きな生き甲斐であり、地域一体感を醸成している「地元の祭りを大切にする心」
・清酒消費量全国1位の新潟ならではの、「人が集まって語らうことを好む風習」 

③ものづくりのプライド

近所、親戚がみんなモノづくりに携わっているから、ものづくりのアイデンティティがこの地にはある。そして良いモノをつくるという考え方を大切にし続けている地である。

マルナオ株式会社 福田隆宏氏よりインタビュー

江戸時代より金属加工の一大産地として発展してきました。この思想は、インタビューしたどの経営者からも感じることができました。「良いものを生み出してきたという誇り・アイデンティティ」は強く根付いていると考えます。

その上に成り立つのが燕気質と三条気質であり、下記の通り違う強みを持ち合わせる。

燕市の気質

①逆境での粘り強さ
度重なる洪水を乗り越え、東洋一の大工事(大河津分水)を成し遂げた成功体験から醸成された忍耐強さ

②小さきもの連合での団結
洪水により、藩も統治せず、力を持った地域の支配者が存在しないことで、洪水や三条支配に対して集団で立ち向かう団結心

③職人気質
まずは衝突して言いたいことを言う、腹の内を正直に言い合う裏表のなさと衝動的な行動特性(石橋を走って渡る)を持つ。

三条市の気質

①変化対応力
常に市場の要求・環境変化に敏感で、過去にとらわれず、柔軟にビジネス・立ち振る舞いを変化できる

②吸収力
域外・専門外から新しいアイデアや知見を積極的に取り入れ、自分のものにすることができる

③商人気質
三条の人は腹黒くしたたか、腹の内を見せず、交渉の際には本音と建て前を使い分け円滑に進める、根っからの商人気質がある。その気質もあってか、マーケティングやPRも上手で上場会社も多く商売上手

まとめ

さて今回は、先天的要素をもとに、燕三条の地に培われた気質・関係性について、かなり解像度高く迫ってみましたが、いかがだったでしょうか?

外側からは「燕三条」として一体となった産地型産業クラスターを築いていると思われがちですが、実際には、燕市と三条市は良好な関係で手を取り合って発展してきたというわけでは決してありませんでした。力のある三条、買いたたかれる燕という過去の確執はあり、それはいまだ一部残っています。

しかし、上記で述べたお互いの機能や強みを利用し、補完しあいながら、産地型産業クラスターとしてサステナブル経営を実現してきました。こういった関係性や気質の背景には、燕市と三条市の先天的要素が大きく関係しているといえます。

さて、いかがだったでしょうか。
今回は#4で述べた燕三条の先天的要素が、現地の人々の気質にどのような影響を及ぼしたかについて深堀をしました。
次回記事では、この先天的要素に基づき、燕三条の産地型産業クラスターの成功要因の仮説とその検証フレームワークについて触れていきたいと思います。

Teams想 髙橋佳希

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