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【連載小説②】1979年初夏、ドーの話。/ DOE DEER, WHAT’S THE MATTER??

作:結友

前作はコチラ。


4. フラッシュバックのお時間です


12時間前。コズモの(母の)家、地下室。

「…いいのか?」ドーが聞いた。
「ああ」
「別に、説明なんてなくてもいいんだぜ。言われなくても試す気満々だからな」
ドーは片方の眉毛をつりあげて、コズモの手のひらで転がっている2つの錠剤をじっと観察した。

2人は地下室のソファーに並んで座っていた。正面のテーブルにはピザの食べかすと段ボール箱、ビールの瓶、ボードゲームと文字のたくさん書いてある紙切れが散らばっている。コズモはテーブルの上の紙切れを選別し、ぎこちなく一つ手にとると、ドーに手渡した。
「『タイ狂人の思いやり』…?」ドーはタイトルを読み上げるとすぐ、うわぁとうめき声をあげ、顔を手で覆った。
「一文目が目に入っちまった。もう後戻りできないって、続きが気になりすぎる、ずるい」
コズモは一瞬嬉しそうにふっと笑った。そしてすぐに真顔に戻り、手のひらの錠剤に目線を落とした。
「シェフの話を聞いてから試食してあげないと」

ドーはよっしゃとコズモに同意すると、息を大きく吸った。老眼ではないのにわざと紙を遠くに持ち、目を細めて、斜めに書き殴られた字を目で追い始めた。文章はすべて不揃いな散文詩でできていて、簡単な単語しか使われていないのにわざと読みにくく書かれていた。内容はこんな感じだった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あいつとの別れはひどいものだった。
だけど、あいつといることの方がもっと辛かった、それだけ。
今まで一緒にいた人間が、ただの数字になるところなんて、誰も見たくないだろうな。

5年。ただの5年。

思い出したくないと言ってしまえば、なにもかも消えてしまう。
ほかに存在した5年も…いた友達、読んだ本、いった場所…それらも道連れになってしまうんだ。

おれがメラニーを突き離した夜…(ドーが紙から目を離した。「これ、後で名前変えるんだよな?ほら、訴訟とか名誉毀損とか気になってさ…」コズモは顔で「いいから続きを」と促した)

あの夜、ドアにはビールの瓶が袋に入ってかかってた。あいつが買ったんだとすぐわかった。知り合って長くはないが、助けてくれる友達がいるのはいいことだと思うんだ(ドーはニヤリとしてコズモを見たが、コズモは頬を少し赤くして、また「いいから続きを」と促した)。
そのあとおれは、もう一度「戻りたくない場所」へ戻り、
メラニーは刑務所へ入った。
セラピーと手仕事の毎日。おれはくだらない散文詩ばっかり書いていた。
「夜明け前が一番ツラい」っていういい文句があるけれど、確かに1番暗かったのは裁判の前日だった気がする。
その日を境に少しずつ太陽が顔を出してきて、部屋がだんだん狭くなって、おれはしだいに宇宙を感じなくなっていった。

おれは療養グループの中では一番無害な、話の分かるヤツという称号をもらった。セラピーではよく相槌を打ち、人の話を聞いた。映画も昔より見るようになった。
そんなとき、おれの人生にケアリーが登場してきたんだ。

ケアリー・ウィホクラット。

彼のことを語らずにはいられないんだよ。ケアリーの野郎はとにかく、超人だったんだ。
彼は療養グループで1番仲の良かった男だ。おれが初日に話した唯一の人間だった。しかし第一印象は決して良いものではなかった。長身で背骨が曲がり、常に体が左側に寄っていた。髪が長くベタついていて、顔も脂っぽかった。ずっと驚いたような目をしてキョロキョロあたりを見ていて、一体何に怯えているんだろうと皆が考えこんでしまうほど。
表情と同じく、内面もなにかと興奮しやすいタイプだった。療養生活から何も得る気がなく、ここから出る気はないんじゃないかと思えた。むしろ白い服に身を任せて、白い壁に溶け込んでしまっているような、かわいそうなやつなんだ。
だけどおれはケアリーに一番心を開いていた。なんでかは分からない。
怯えながら遠くを見ている感じに、安心を覚えたからかもしれない。自分の体を触って落ち着かせる不安症予防のセラピーがあるんだが、ケアリーと話すときはその時の感触と似ていた。
不安を、ちゃんと不安がれる人間が視界にいてくれるのはありがたい。

ある日ケアリーは一日、外出の許可をもらった。前日に「出たい」と言い出したからだった。もちろん許可は降りなかった。
その日の夜、職員が皆で押さえつけないといけないくらい、ずっと奇声を発し続けた。おれもそのせいで眠れなかった。ようやく院長が折れて、許可が降りた。
彼が出ていった日、おれは職員の一人に理由を聞いてみた。
職員によると、彼の姪っ子が遊びに来たんだそうだ。ケアリーの両親はタイ人で、兄弟は皆タイにいるらしかった。姪っ子は兄弟のうちの、一番仲の良かった兄の娘だ(もっと詳しく聞いてみたかったが、職員は「そこまで聞いて一体何に利用するつもり?」と言い、おれのノートを机からさっと取って持っていってしまった)。
その日の午後11時25分、ケアリーは部屋に戻ってきた。ケアリーは左に寄った背中を大きく揺らしながら、おれのベッドの前までやってきたんだ。
ぎょろっとした目が、おれの目と重なった。ケアリーはそれから、何も言わずにゆっくりと部屋から出ていったので、おれは迷わず後を追った。

ケアリーはチェス版の置いてある机のそばに四肢をのばして座り、真下の机をじっと睨みつけていた。おれは向かいに座った。彼が何も話さないので、口を開こうとすると、ケアリーは「だめだめだめだ」と口止めをし、小さくクックック…と笑い出した。笑いがだんだん大きくなり、しばらく笑い声で部屋中がいっぱいになった。
「関係ない!関係ないんだよ」
ケアリーが笑いながら言った。
おれはケアリーの目を見つめて、正しい返答を探そうとした。
「パパイヤが入ってようと、なかろうと、関係ないんだ」
どうやらケアリーは料理の話をしているみたいだった。
「一体何を食ってきたんだ?」
おれが聞くと、ケアリーの笑いはだんだんと薄れ、落ち着きを取り戻した。
「ソムタムかな、ほんっとうにうまかったんだよ」
ケアリーの目は輝いていた。カリフォルニアいちのタイ料理の店のはなし、調味料、屋台のはなし、故郷のこと、ケアリーはノンストップで話し続けた。彼は普段、あまり話をするタイプではなく、一緒につまらなそうに黙って活動に参加するくらいだったから、ケアリーの話ぶりは異常だった。

しかし、おれに相槌を打つ暇を与えられるたび、
あることを指摘したくてたまらなくなった。
人の存在がなかったことだ。
ケアリーの話は、すべて物質だった。店の見た目、天井の色、メニューに小綺麗なイラストがついていたこと。興奮しながらまくし立てた単語の数々は、モノばかりだったんだ。だっておかしいだろ、今日は姪っ子に会ってきたんじゃないか?
おれはたまらなくなってしまい、ケアリーの話を止めてしまった。
「なあ、今日、会ってきた人がいるんじゃないのか…彼女はその…いい1日をすごせたかい」
ケアリーは急に静かになり、うつむいた。
彼の肩が細かく震えはじめた。
そして、長い首を曲げて軽く何度もうなずいた。
彼は涙を流していたんだ。
ゆっくりと顔を上げると、おれほど第三者を思いやれる人間はいないと、か細い鼻声で言った。ケアリーは、今まで見た中で1番細い目をして、こちらをじっとみて、涙を流し続けていた。おれは何か言おうとしたが、何も言えなかった。彼の身に起こったことが何であれ、ショックな出来事だったことには変わりない。嬉しいのか悲しいのかも判断できなかった。両方の解釈に合う返答を用意するのは、おれの得意分野じゃない。
ケアリーはポケットから小さい袋を取り出し、机の上に置いた。袋には2つの小さな錠剤が入っていた。
「ラワンの」
おそらく姪っ子の名前なのだろう。ケアリーは長くていびつな手を伸ばし、袋をおれの方へぐっと押し出した。
「人のために動ける人のための、とっておきなんだ」
おれは理由を聞かずに受け取った。

次の日、けたたましいサイレンの音で目が覚めた。
寝返りをうつと、警官らしき人々と職員がケアリーのベッドを指差し、こっちまでやってくるのが見えた。周りの患者たちも怯えながら一部始終を見ていた。警察は4人がかりでケアリーの長く、コントロールの効かない大きな身体をつかまえて、外へと運び出した。
おれは窓へよろよろと歩き、外を見下ろした。
ケアリーはパトカーの前で手錠をかけられていた。横に女性がいて、同じように手錠をかけられていた。職員が面白そうに、おれに近づいて来た。
「タイ警察から連絡が来たんだと。あいつは現地で違法薬物を販売していて、指名手配されてたらしい。ただ調べても証拠がないみたいでさ、刑はうんと軽くなるだろうな。ブツでも出て来ればいいんだけどね、うち警備厳しいから出ないだろうし」
おれは手に汗をかくのを感じた。
ケアリーは上を向き、じっとおれを見つめた。窓はしっかり閉まっているのに、会話を聞かれているみたいで不思議だった。職員は得意げに続ける。
「俺もやらかしたことあるからわかるんだよ。3年くらったことあるからさ。あいつは賢い野郎だ。ここだとなかなか見つからないし、見つかったとしてもあいつに有利な条件が揃う。精神がイカれてたら、罪は軽いってのをあいつは知ってたんだな」
職員は分かるだろうというように、自分の頭を指さしてくるくる回した。

おれはもう一度窓の外に目を向けた。
捕まったケアリーは、もうキョロキョロなんてしていなかった。
真っ直ぐおれを見て微笑むと、横にいた女と熱いキスをして、車に押し込まれていた。
おれは眼鏡を外し、目をこすった。

ケアリーについて、何が本当なのかは分からない。タイ出身かどうかも、姪っ子がいるのかどうかも。すべてが謎だった。
ただ、あの時食べたソムタムがめちゃくちゃ美味しかったことだけは確かなんだろう。

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ドーはしばらく、ぼうっと読み終わりの余韻に浸っていた。
そして、彼なりの結論に達した。
「…押しつけじゃん!マルチじゃん!」
「いや、金は取られてない」
「やべえ奴に目をつけられたんだよ。優しくて、疑わないやつだと思われたんだよお前は。利用されてるじゃん、マルチじゃん」
「選ばれたのかもしれないんだ」
コズモはうつむいてつぶやいた。
「言い換えれば現に『コズモがケアリーさんを助けます、あわよくば代わりに捕まってあげます。はい生贄はおまえに決定!』の暗喩でしかないだろ」
「おれは信じてみるよ」
ドーはそれを聞いて、呆れ顔をした。コズモは錠剤を手で転がす。
「…やめとくか?」
「ふざけんなよ。試すしかないだろ!タイの世界的な指名手配犯が最後にお前に託した作品なんだろ!ほれほれ」
コズモは少し笑うと、うつむき、ドーから顔をそらした。
「…どうも」

「なんて?」
「だから…どうも」
「なんで?」
「そもそもおれの話がウソだとか…茶化さないでくれて」
ドーは空気が少し澱むのを感じた。人が「それ以上」の意味を言葉に含んだときにしかできない空気だ。ドーは、その空気に身を任せる。
「…嘘でも気にしない、それだけのことだよ」

2人は錠剤をひとつずつ飲みこんだ。

テレビからは『マッシュ』のエピソードが流れていた。2人はしばらく、何も話さずにじっとテレビを見つめていた。
ドーはソファーからゆっくり体を起こし、だらけすぎた体勢を整えようと動いた。
「…あれお前か?」
壁に貼ってあるちっぽけな写真を見つけたドーは、目を細めた。茶色いしみだらけの壁に唯一貼ってある飾りだったので、妙に浮いて見えた。
「ああ、お袋が好きで貼ってる」
ドーは立ち上がり、目を細めながら写真に近づいた。3~4センチにも満たないサイズの正方形の証明写真だった。メガネをかけた高校生くらいの少年がにこっと笑っている。笑顔でほっぺたが膨らみ、赤く色づいていた。
今より確実に幸せそうで、同時になんの歴史も、重みも、深みも感じない顔だ。しかしこの笑顔の少年は、まちがいなくコズモだった。
「こんなかわいいご先祖様がいたとはなあ」
「実は生き別れになった兄貴の生前の一枚なんだ、供養のために飾ってる」
ドーはマジかよ、という顔をしてコズモを見た。
コズモは頑張って真顔を保とうとしたが、ついビールを吹き出してしまった。
「…お前さあ、退院してウソがだいぶんうまくなったよな、くだらねえ」
「どうも」
「でもさ、壁に飾るなら、もっといい写真あっただろ?免許証から無理やり切り取ったような写真じゃなくて」
「これしかないんだ。おれの写真。親父とおれのことでいっぱいで、写真撮る暇なんかなかったんだと思う」
ドーは記憶を呼び起こした。コズモと知り合ったのは大学生のころで、すでにコズモの父親は他界していた。AJから聞いた話だと、父親は飲んだくれで、ひどいやつで、家族に暴力を振るっていたとかなんとか…
「まあ、AJん家のアルバムには何枚か写り込んでると思うけどさ」
コズモがビールを飲みながら、何も気にしない様子で言った。
「何歳の時?」
「免許とった時だから、16んときだ」
「いい笑顔だな、お母さんが取っときたい気持ちもわかるぜ」
コズモはビールを一口飲み、肩をすくめて言った。
「16の方がいい人生を送ってたから」

『マッシュ』が佳境に差しかかった。テレビから手榴弾が爆発する、音質の悪い音が聞こえた。
ドーはまた、なんとも言えない「空気の澱み」を感じた。
しかし今回はコズモが起こしたのではなく、自分の感情のほうだった。ドーはいてもたってもいられなくなり、無理やり笑顔をつくり、振り向いた。
「俺さ、4つ上の兄貴がいるんだ。これはウソじゃない。俺が12のとき、兄貴はなんと16だった。あ、当たり前か」
ドーは指を折り、4まで数えてわざとらしく笑った。
「12の俺は、負け犬だった。親の意向で「ひと味違う教育」が売りの私立の中高一貫に入れられたんだ。学校の奴らはみんな優秀でクール。俺はちびで癖毛で、クラスで何をやってもうまくいかなかった。
 その年のハロウィンの日、学校が不健全なパーティを廃止するためだけに、お化け屋敷イベントをやったんだ。生徒がシフトを組んでお化けになって、ほかの生徒と、PTA連中を怖がらせて満足させるってやつだ。お前やったことあるか?」
コズモは首を振った。
ドーはテーブルからタバコを取り、写真の横の壁にもたれながら火をつけた。
「俺はその日、人生で初めてできた彼女をお化け屋敷に連れてったんだ。初デートが学校の代数の教室ってオタクっぽいよな。それでも、いつもの教室が飾りやらなんやらでめちゃくちゃ怖い感じに仕上がっていて、彼女は嬉しそうに怖がってた。

俺は彼女と進んでいった。ハロウィンらしいBGMでテンションが上がりながら、一緒に歩いて行ったんだ。周りからひそひそ声が聞こえてきたけど、
俺たちはかまわず進み続けた。

 そして、ドン!

身体が宙に浮いて、気づいたら俺は床に突っ伏してた。あごを強打して、皮膚がパカッと開いて、自分の血が流れてくのが見えたんだ。証拠を見せようか」

ドーは自分のあごを見せ、コズモはのぞき込んだ。
確かに傷痕のようなものが見える。

「数秒かかって冷静になってきたら、状況がわかってきた。通路の脇に隠れていたお化け生徒の一人が、俺の足首をぐっと掴んだんだってこと」

ドーは空気をグーで掴んでみせた。

「俺はクラスメイトに足首を掴まれて転んだ。あごと頭が痛すぎて動けなかった。泣けてきたよ。俺が涙をぽろぽろ流し始めたらさ、お化けをやってた全員がその姿のまま集まってきて、俺を囲んで笑い出しやがった」

ドーは煙を吐いた。

「なんかさ、全てが仕組まれてたみたいなんだ。彼女も、ほかのクラスメイトも。俺を囲んで、俺のことを笑ってた。そして1人、足首をつかんだ張本人が俺のそばで膝をついて、言ったんだ。

『お前は今までも、これからもこんな感じで生きてくんだよ』って。

12歳のがきんちょにしては深い呪いの予言じゃねえか?でもまあ、今の俺を見てくれよ…ってか」

ドーは笑い、首を振った。

「いやいや違う、そうじゃない。それが言いたかったんじゃなくて。
とにかく俺はなにも言い返せず、ただ泣きっ面を学校の奴らにさらしながら、永遠に倒れたままでいたんだ。
 すると通路のカーテンから、シーツを被った1人の生徒が奥からゆっくり歩いてきた。ローファーの音がカツカツとリズムを刻んで、生徒たちは一人、二人と、次第に笑うのをやめていった。

男子生徒がシーツを脱ぐと、それは兄貴だったんだ。
無表情で、大きくて、俺が何ひとつ理解できない、静かな兄貴だ。

16歳の男がシーツを捨てて、何も言わず、ゆっくりこっちへやってきて止まった。12歳のガキどもの前で。

大きくて、何がしたいのかわからない大男が近づいてくるんだから、生徒たちはめちゃくちゃビビってた。ついに足首をつかんだ主犯のガキがいてもたってもいられなくなって、イキって喧嘩を売るんだよ。
『なんだよ、何の用だよ!』って」

テレビは静かにエンディングクレジットを流していた。
ドーはもうコズモに語りかけていなかった。

「兄貴はそのまま静かに近づいて、顔色ひとつ変えず奴の前にしゃがみ込んだ。そして死ぬほど素早く、そいつの足首をつかんだんだ。

そいつは尻もちをついて、俺と同じように床に倒れた。兄貴はそいつの目を見つめたまま、表情を変えることなく、ただただ手に力を込めていった。
爪が食い込んで、ガキの驚いた顔が痛みに歪むのが見えた。

ガキは自分の足首と、兄貴の顔を交互に見ていた。怯えきってさ。それでも兄貴は顔色ひとつ変えることなく、手に力を込めていった。
静かで、つめたくて、情熱的で、とてつもなくカッコよかったけど、
怖かった。

ガキがしくしく泣き出した。
今度は誰ひとり、笑っていなかった。

沈黙の中で、奥から先生が『なんの騒ぎだ!』ってこっちへやってくるのが聞こえたら、兄貴はなにもなかったかのようにスッと手を緩めて、
俺には一瞥もくれず、立ち上がって去っていった。

その後ガキは停学処分、俺はとりあえず「成績不順」を理由に、別の中学に転校ってことになった。兄貴はお咎めなし。だれも兄貴の存在を話題にしようとしなかったからだ。

その日の夜、俺は兄貴の部屋へ行き、何かを言ってやろうとした。
お礼を言うつもりにはならなかった。ただ兄貴がそこにいたってことを事実にしようとしたんだろうな。でもそれは叶わなかった。兄貴はそのころ、毎日ひと晩じゅう勉強に明け暮れてたんだから。親父が机の隣に立って、兄貴がちゃんとやってるかを見張ってた。俺がドアのところにいるのに気がつくと、親父が眉をひそめて、俺に命令するんだ」

ドーはふうっとため息をついた。

「ヴィンセントは忙しい。はやく部屋にもどれ」

ドーはコズモの方へすばやく振り返り、いつものニヤけた表情に戻った。
「ま、誰だって、16歳の時がいちばんクールなのかもなぁって話」

コズモは、目線の先の空間をあてもなく見つめたままでいたが、しばらくして口を開いた。

「お前も勉強させられたのか?」
「ううん。俺は落ちこぼれだったから、ほっとかれたよ。何をしても咎められない。親の束縛フリーパス。らくらく!」
「お兄さんも医者なのか…?」
「ううん、今はスーパースター」
「…少なくともお前『は』医者なんだよな…」
「資格って面白いだろ。クソッタレな親のケツの前に『資格』という名の紙切れを振りかざして、目の前で破り捨ててやるのを夢見てたんだ。その顔を想像するとたまらなくモチベが上がった」
「じゃあお前の免許はリベンジ精神の賜物ってわけか」
「そう。あれ、資格といえば、免許証どこやしたっけ。車の」
「兄弟そろって親の夢を叶えようとしたのか」
「まあ俺は今はただのバイトだけどな。高給取りのバイト…なあ、いつ効いてくるんだろこれ?」
ドーは確実に話を終わらせたがっていた。
「…さあな」
「てか俺、さっきどのくらい話してた?」
「ちゃんと起承転結がある程度には」
「おほほ、マジかよ」
「もうすでに始まってるんじゃないのか?」
コズモがそう言うと、ドーはみるみる表情を変え、世紀の大発見をしたように、口を大きく開けて息を吸い込んだ。
「そういうこと!?!?タイのマッド・マンの料理のせいで嘘っぱちをペラペラ話しちゃったのかー。なるほど、すげえなあ」
ドーは楽しそうに数本歩き、ソファに飛び跳ねるように座った。何も言わないコズモの方を見て、不思議そうに首を少し傾げる。
「なあ、いつもみたいに気にせず流してくれって。それよりさ、俺の免許証知らねえ?」

コズモはお茶目にまばたきを繰り返しているドーの目の奥をとらえようとした。この人は自分が思っているより、周りの助けを必要としてるんじゃないのか。そんな思考がコズモの頭を駆け巡った。しかし同時に、迷いも生まれていた。

これは全部、おれの思い込みかもしれない、と。

人の本質は迷路だ。本心なんてものを推し量りはじめると、すべてが迷宮入りになる。
交わした会話、うつった表情。今まで明確に思えたことも、全部ひっくるめてぐらついて、根拠を失って、渦の中にまぎれこんでしまうんだ。たいていそんな時、コズモは言葉が見つからず、言えたはずのことも言えなくなってしまう。
コズモは、数ヶ月前の精神状態に逆戻りすることをとてつもなく恐れていた。しかし同時に、友だちを救えるのなら、賭けに出てみたっていいとも思っていた。

「なあ、免許証無くしちゃったみたいだわ」
ドーの話を遮るように、コズモはぽつりとつぶやいた。

「『よくわからないこと』って、どんどん大きくなるよな」

ドーのにやけ顔が一瞬固まった。
コズモはそれを見て、返事を拒否するかのように、素早く立ち上がった。立ち上がった途端、コズモは地面がぐらぐらと揺れるのを感じた。

ドーは千鳥足のコズモを見て調子を取り戻すと、あはっ、あはっ、と大声で笑いだした。

「おーーっと、やべえな、これでさ、俺たちの身になんかあったらさ、ウィンストンの野郎を訴えようぜ」
「ウィホクラットだよ、ウィホクラット」
コズモはよろけながら階段のほうへ向かった。
「おい、どこ行くんだよ」
コズモは振り返って言った。
「どこって、弁護士に訴えてもらいたいんだろ?」
「危機管理能力が高くて!よろしい!」
ドーも後を追った。そうして、二人はフラフラとこけながら階段を登って行った。

「AJ!AJのやつ!あいつほどワーカホリックな奴を見たことがねえよ。いつか絶対どこかに閉じ込めて、無理やりにでも休みを取ってもらうべきだと思うんだよ、あいつのためにもさ…」

ドーは立ち止まった。
「お前さ、木と釘持ってる?」

*
現在。

ドーは血だらけのシャツから、小ぎれいな赤いアロハシャツに着替えてきた。目の周りは紫色になり、鼻の横の傷もくっきりと目立っていたが、精一杯のことはしたつもりだった。
「それでもひどいな」
バスルームから出てきたドーを見るなり、AJは顔をしかめた。
「…本当に一緒に来るのか?つまんないと思うぞ」
ドーはキッチンの蛇口をひねり、グラスに水を入れて飲んだ。
「なんだよ、俺が隣にいると恥ずかしいってか!」
「控えめに言ってもね、ああ」
「お前の目のクマも相当恥ずかしいけどな」
ドーはグラスをAJの方へ乱暴に突き出し、言い終えるとグラスをアザのある頬へとくっつけた。
「お前ら泥酔バカのせいで寝れてないんで」
「いやいや。AJ、お前は俺たちに感謝するべきなんだぜ」
AJは腕を組んだ。
「昨日はドー様の宮殿で過ごせて、仕事に行かずに済んだんだからな」
「…少々強引だったけど、お前が心配だったんだよ…たぶん。ほら、人を思いやる心が…とかなんとか」
コズモがジーンズのささくれを床に払い落としながらつぶやいた。語尾は聞き取れなかった。
「そうか。ありがとう。お忙しいところ僕のことを気にかけてくれて。まあ、元から非番だったんだけどな!!!」
語尾にいくにつれて声がでかくなったAJの様子に、コズモとドーはなすすべなく顔を見合わせた。AJはイライラした様子で、ポケットから小さな手帳を取り出して睨みつけた。
「今から、本当に、ついてくるんだな?」
「場所は」コズモが聞く。
「サテライト・オブ・モニカ」
「は!真っ昼間からバーでのミーティングを指定してきた客がいるのか!行くしかねえ」
ドーがキッチンの台から小銭をつかんで言った。
「客じゃない。依頼人の元夫だよ。離婚協定で親権を争う相手の話を聞きにいくんだ」
「待てよ。くっそデリケートな案件じゃん」
「その通り」
「最高かよ」
「わかった、他人のふりをする」
コズモがゆっくりとうなずいて言った。
AJはジャケットを羽織り、ドーの車の鍵をサッと取ると、2人の前を通り過ぎてドアへと向かった。

「ぜひそうしてくれ。あと、かなり遠くの方で飲んでもらえるとありがたい」

3人はドーの家を後にした。
AJはドーの車を運転し、サンタモニカのサンセット・パークへと向かった。

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