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【連載小説⑥】1979年初夏、ドーの話。/ DOE DEER, WHAT’S THE MATTER??

前作はコチラ。↑
作:結友
イラスト:橙怠惰

8. ベールの内側

タルーラは文字通り、輝いていた。
1曲目で客の心に挨拶をして、2曲目で誘惑。3曲目ですべてを弾き飛ばした。

コズモはパフォーマンスに釘付けになっていた。スパンコールがギラギラと反射して眩しかったが、関係ない。コズモは目を見開いていた。

タルーラは完全じゃない。それが好きだった。

歌には完全な強さとエネルギーで武装したような力がこもっているのに、伴奏の間にふっと力が抜ける。一節を歌い終わるごとに、強い目が一瞬だけ脅えた子供のような目になり、何事もなかったかのように元に戻るのだ。ちょっとはにかんだ笑顔をしたと思ったら、すぐにライオンのように牙をむいて客席を睨みつける。悪態をついた客に向かって。コズモにはどこか、その隙間にタルーラは命をかけているんじゃないかという気さえした。

タルーラはきっと、ステージに立つことで自分を見つけたんだと言われるのかもしれない。雑誌でもそう取り上げられるんだろう。そういう人は多くいる。だが「パンク・シンガー」という言葉もこの人の一部でしかない。「ノー」というべく生まれついた人間は、どんなにいい場所を見つけても、いつかは「ここから出して」と言わないといけない。そんな日が来ることを恐れている。だから安心できないし、ゆっくり眠れるわけなんかない。人生はいい詩をこしらえるんだろうけど、本人はたまったもんじゃないんだ。

コズモは、そんな人間が周りにたくさん集まっていることに気づいていた。それがなんだか心地いいのだが、足元がぐらつくような寂しい思いにもなった。あいつもそうだ。こいつも。コズモはちいさく一人ずつ祈っていった。ドーだってそうなんだろう。

横ではAJが片眉をあげて、悪態をついた客のほうを批判的な目で見つめた。
「なんで金を払ってまで、わざわざ嫌いなものを見に来るんだろうな」

4曲目は完璧だった。金を払って「ホモ!」と叫びにきた観客用に、いかにそんなやつらがシベリアの精神病院で面白い実験台になれそうかを歌う短いパワーポップだった。そういう皆ほど、本当は踏みつけられたいんでしょと歌ったタルーラの完全勝利だ。すべては計算し尽くされている。末恐ろしいやつだとAJは感心した。

曲が終わる頃、AJがコズモの肩をたたいた。コズモは答えなかった。何回か叩くとコズモははっと驚いてこちら側に戻ってきた。AJは、何考えてるんだと聞いた。コズモはだんだんショーに集中できなくなってきたと答える。AJも同じだと言う。
次の曲が始まり、AJが大声で聞く。ドーはどこにいると思う。コズモはしばらくステージの方を眺めて曲を聞いたあと、AJのほうへ顔を向ける。なんか、ここに来る気がするんだとコズモは唸って答える。しかしコズモはなぜそう思うのか、うまく説明ができなかった。

結局、ここまで待っても来ないのはおかしいということになり、
2人はドーの家へ行ってみることになった。

しかしコズモの勘は正しかった。
AJとコズモが会場を後にして車に乗ったあと、ドーがすれ違うようにして会場へ入っていった。

会場はすでに人でいっぱいだった。ドーは後ろのほうで壁にもたれかかることにした。歓声と飛び跳ねる人々の汗を浴びながら、呆然と立ち尽くしてまっすぐステージの方を見つめた。

ステージ上のタルーラは隠れて見えなかった。それでもドーはよそ見することなく、ランダムな観客の頭をとりあえず穴が空くほど見つめ続けた。というより、ほかに目を置く場所がなかった。

動きまわる観客の頭の隙間から、ステージ上を動き回るタルーラがちらりと見えた。黒いギターを胸のほうに持ち、熱心に掻き回している。赤い下着のような薄いドレスは、ギターを上のほうで抱えているせいで布がたるみ、筋肉のついた肩からストラップがずり落ちていた。

タルーラは何も、毛ほども気にしていなかった。青いアイシャドウは汗とブレンドして輝き、赤いリップは右頬まで血の滲みのように滲んでいる。誰かとパフォーマンス中にキスしたんだろう。目線はマイクと観客をゆるやかに行ったり来たりしていた。

遠くから見ると、ホラー映画で最後に生き残った登場人物みたいだった。月の光を浴びながら、血と疲れ、アドレナリンに満ちた身体で、裸足で夜の森を逃げている。ドーは反対側で、喧騒と煙をただ反射させながら、まったく影響を受けられずに立ち止まっていた。暗闇のなかで踊る観客が森の木々だとしたら、ドーは脳みそを食われてここへ引き寄せられてきたゾンビだった。

曲が終わり、喧騒が一旦静かになった。
何人かがちらほらと雄叫びをあげる。タルーラは汗だくで笑いながらギターを肩から外し、床へ置いてマイクへと歩み寄った。眩しそうに斜め上の照明ブースへと目を細める。タルーラは長い爪をつけた人差し指を上へ立てながら言った。

「周りの人からは『成し遂げた』と思われなくても、ものすごいことを成し遂げたあなたに」

観客はどう反応していいか分からず、気まずい沈黙が一瞬流れた。するとタルーラはベーシストにチラリと目配せし、ホシに拍手を!と言った。すると観客が口々にホシ~!と歓声をあげだした。眼鏡をかけた小さなベーシストは、せいぜい中学生くらいにしか見えなかった。彼は恥ずかしそうにうつむいて笑うと、後ろのアンプへくるりと振り返った。ダダダダダダダ…とアップテンポの低音を鳴らし始める。シンセサイザーとドラム、激しいギターの音色が続いた。ドーの頭もガンガンと脈打ちはじめた。

タルーラは犬のように激しく頭をふった。汗が照明に反射してキラキラと汚く光る。そして両手で額の汗を乱暴に拭うと、マイクを持ち、目を閉じて息を大きく吸った。顎でカウントをとり、覚悟を決めて目を開ける。空気が一気に変わった。

この人は怒っている。目がそう語っていた。
誰にむかって怒っているのかは誰にもわからない。
タルーラが歌い始める。

戻りたくない
戻らせてくれ
子供の頃の
お菓子の家に

音楽と歌詞に体が引っ張られるようだった。ドーは突然いわれもない虚無感に襲われて、どうしようもなくなってしまった。壁からゆっくりと背中を離すと、無意識に息を吐き出し、ゆっくりと目を閉じる。ドーはタルーラの感情に身を任せて、音楽に全く合わせることなく、ゆらりゆらりと身体を揺らしはじめた。

遊びたいだけなのに
目を閉じると僕は
銃を頭に突きつけてしまう

こればっかりは
どうしようもなくて
どうにかしたくて 
なんで祝福してくれる?
こんな友達を

ドーの顔は徐々に徐々に歪んでいった。目をより固く閉じて、歯を食いしばった。
重い頭のもやに、気持ちが侵食されていく。なんだこれ止められない。叫び出したくてたまらない。でも自分の言葉が見つからないんじゃ無意味だ。何か言わないといけない。でも何を?ドーは聞こえる言葉だけを頼りに眼球を必死に動かし、頭の中をさまよってみた。何も見つからない。押し寄せてくる感情に疑問を持つだけだった。なんでこんなに悲しいんだろう。兄さんのことか?関係ない。自分の惨めさのせいか?別に。どうでもいいのに。全部どうでもいいのに。ドーはこの歌のせいで自分が苦しんでいるのがわかっていた。でも同時に、次に耳にする言葉を渇望していた。
この瞬間、ドーはタルーラの言葉だけに生かされていた。

タルーラは容赦なく、次の言葉を吐いた。

もう終わりだと
人生が語りかけてくるなら
少しでも「疲れた」って
言う権利はあるかな

爆発してから
染みついてきた
廊下と月曜日
僕たちの秘密は
もう肌を離れてる

戻らせてよ
戻りたくない
蜃気楼の奥深く
目の前のドア

道を間違えて
スーツ姿で
排気ガスのなかを
泳いでいってしまう

お菓子の家を僕は睨む
友達として
友達はただ
睨むことしかできない

ギターのノイズだけが残り、辺りはだんだんと静かになっていった。
曲が終わった。拍手が聞こえない。

ドーはそっと目を開けた。客はもうみんな帰っていた。
遠いステージの上では、タルーラがドーを静かに見つめていた。

タルーラがガチャンと楽屋のドアを開ける。

「ごめん、緊急事態。一瞬出てって」

部屋ではさっき「ホシ」と呼ばれていたベーシストの少年がご飯を食べていた。タルーラの申し訳なさそうな声に気づいて顔を上げると、ソースのついた指を舐めてからぎこちなく立ち上がった。パイプ椅子がガタガタと音を立てる。
「ごめん」
タルーラはすれ違いざまに言った。ホシは何も言わずに二人に微笑んで応えると、ドアをくぐって後ろ手でドアを閉めた。

タルーラは奥のハンガーにかかっていたジャケットを手に取ってサラリと羽織った。ホシが座っていたパイプ椅子に座る。机の上の食べかすをはらってそこに両手を乗せると、ため息をつき、ドーを見上げた。ドーは斜め下を見たまま、ドアの前で立ち止まっている。

「風邪ひくよ」ドーが聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいた。
タルーラは何も言わずに立ち上がると、机の上のタオルへ手を伸ばして顔を拭いた。

「座らないの?」
タルーラが向かいのパイプ椅子を指差して言った。ドーはよろよろと椅子の方へ回り込み、ドサリと腰を落としてタルーラを見つめた。タルーラの眉がピクリと動く。
「散々な日だった?」
ドーは肩をすくめた。足先を凝視して、つま先同士をごしごしとこすった。泥が床に落ちる。

ドアが勢いよく開いた。二人は驚いて見上げた。
またホシだった。気まずそうに机を指差す。
「ぷ……プラム…だけちょっと取らして」
そう言うとまたバツが悪そうに微笑み、狭い隙間をカニ歩きしていった。そして二人の間にあったジップロックとビールの缶をサッと取ると、そそくさと出ていった。ドーとタルーラは呆然とその様子を見つめた。ホシはあせったせいか、今度はドアを閉めなかった。

次にドラムを叩いていた大男が入口の前をのしのしと横切っていった。見えなくなると、ホシが行った方に向かってあーっとわざとらしく叫ぶのが聞こえた。同時にホシの笑い声が廊下に響き渡る。
大男はホシを簡単に捕まえると、持ち上げたまま入り口を横切ってまた戻ってきた。
「またビールを勝手に飲んで!この!お父さんはそんな子に育てた覚えはありませんッ!」
ホシがうわあと言って笑った。持ち上げられながら、構わずビールを飲んでいる。
「ザックは僕の父さんじゃないし!」
ホシが楽しそうに言うと、ザックは大袈裟に驚くような声を出した。
「お前……!いつから気づいてたんだ……!」
笑い声がだんだん遠ざかっていった。しばらくして、完全な沈黙がやってきた。
タルーラは静かに立ち上がると、ドーの前を通ってドアをパタンと閉めた。そして振り返る。
「にぎやかだねえ」ドーがドアの方を見ながら力なく言った。
「みんなかわいいでしょ、そんで肝が据わってる」
タルーラが言うと、ドーがふっと笑った。タルーラが続ける。
「渡りに船ってやつかな。私は本当に運がいいんだ。人に恵まれてる」
ドーはまた寂しそうに微笑むと、小さく何度かうなずいた。
「あんたもでしょ」
「そうかもな」

また沈黙が訪れた。

「仕事はなにしてるの?」タルーラは気まずそうに言う。
ドーは首を振った。
「今日クビになっちった」
「ほんとに、散々な日だったんだね」
ドーは肩をすくめる。
「ああ、べつに同情なんかしなくていいよ、全部俺のせいだし」
「何やらかしたのよ」
「それがわかんないんだ。急に殴られてさ」
ドーはわざとらしくウインクして右目をアピールした。タルーラもわざとらしく答える。
「本当だ痛そう、敵が多いんだね」
「グラシアス」
タルーラは目を細めた。
「あんたのことは知り合いの知り合い繋がりで話を聞いたことがあるよ。ドーっていうヘンテコな名前を名乗って、いろんな人と人を繋いでくって。音楽、芸能界、ほかのいろんな噂がある。でも本人が何やってるかは誰もわかんないっていう」
ドーがニヤリと笑った。
「そんなぁ!なんか照れるなぁ。でもヘンテコな名前だなんて。けっこうセンスいいと思うんだけどなぁ。『ドー・ディア』って。ドー、ディア、ドー……」
「あんたのお兄ちゃんも、おんなじようなことしてたんだよ」
「え、ニックネームとかあったのか?」
「ううん。人を繋ぐのが得意だったってことよ」
ドーが話を遮るように、テーブルから身を乗り出した。セールスマンのように話し出す。
「ドーって名前の由来知りたい?何でもないやつって意味らしいからだよ、かっけーって思ってさ。もともとは俺の友達とたまたま車運転してたら事故っちゃって、その時に雌鹿を轢いたんだ。そんで友達がずっとおお、ドー、ドーって言うもんだから面白くて。そんで供養のためにもドーって名乗ることにした」
嘘くさ。ドーの声を聞き、タルーラはそう思った。
「はあ、わかった。そんな話どーでもいいんだけど。で、今日は何で来たのよ」
「あはは、どーでも。それ意識して言ってる?」
タルーラは冷たく言う。
「何で来たの?」
ドーが眉をひそめ、わざとらしく椅子に座り直し、真剣な眼差しで答えた。
「バスです。車はAJに取られたし、免許はどっかに落としてきたみたいだし」
タルーラは言葉の中に包まれた、わずかな敵意を感じ取った。それに答えるように首を傾け、言葉を途切れ途切れ吐く。
「違う。なんで。来たの」
「ああ、そう言う意味ね?うんんと…わかんねえ、なんとなくかな」
タルーラはもう一度、ゆっくりと目を見て聞いた。
「なんで来たのよ」
「だからわからないんだよ」
「なんで」
「わからないんだ、もう」
タルーラが目を細める。
「頭の中が空っぽなの?バカなの?」
「その通りだよ。へへ」
「なんで」
「だからわからないんだって。何も」
ドーが目を逸らす。
「なんで」

「本当に、やめてくれよ」

ドーはイライラした様子でタルーラを睨みつけた。

「ほら、その顔、その表情。私に嫌悪をぶつけたいんなら、最初からそうしなさいよ」

ドーがタルーラを睨めつけたまま笑った。
「俺はストレートに何かをぶつけるのは苦手なんでね。すみませんね。そいえば野球も一度もバットに当たったことなくて体育の授業では恥をかいたことが」
「あーもう。だからさあ、私のことを憎んでるんでしょ?」
「まっさか!すごく!よかったよ!ショーなんか圧巻だったし!君は本当に才能があると思う!」
ドーはヒステリックに笑った。

「ねえふざけないで。私に会った時を覚えてるんでしょ」
「ううん」
「嘘つけクソガキ」
「ガキ?そんなに歳離れてねえじゃん。俺もう27だぜ。おっさんだよ。俺たちは一つのジェネレーションに括られてんだ。ほらニュースで言ってるやつ。ブーマー?なんかやだよなあそんなひとくくりにされてたまるかってんでい」

「ヴィニーのこと、私のせいだと思ってるんでしょ」

ドーがフンと鼻息をたてた。足元へ顔を向け、貧乏ゆすりを始める。

「それはないよ。それはない。安心してくれ」
「私がヴィニーをあんな状態にさせたと思ってるんだね?」
「そんなこと思ってない」
「そうだよ。『あの時』は私がそばにいた。助けられなかった。でもあの時私も最悪な時期を過ごしてたの。ひどい生活だった。どんな人間も最悪な時期があるでしょ、あんただって何も言えないはず」
「そうだねはいはいはいわかったわかった」
「でも止められなかったってのは事実。私のせ」
ドーがテーブルを叩きつけた。
「ああもう!どいつもこいつも。自分のせいだせいだせいだばっかり。そんなに罪を背負うのが楽しいのかよ?」
「あら、やっと顔を出した。弟くん」
「タルーラ、君はヤク中だった、そうだったんだろ?……じゃあ仕方ないじゃん。『この世界が残酷』で?『シラフじゃ耐えられなかった』とか?みんな言うからな。俺もその通りだと思うよ。たまたま先にそうなったのが兄貴だったんだろ」
「私はヤク中じゃない。娯楽用使用者だよ、あんたと同じ」
タルーラが言い放った。
「……なんでわかった?」
タルーラは何も言わなかった。引っかかった、と言わんばかりにドーを見つめる。

ドーがイライラして顔を赤くした。
気持ちを落ち着けようとわざとらしく口を膨らませ、必死に息を吐いた。
そして軽蔑をこめてニコリと笑う。

「タルーラ、君さ、やな奴ってよく言われない?」
「そうね、一定の人たちからは殺すと脅されてる」
「なんで?」
「さあなんでだろうね。友達の弟の問題に首を突っ込みすぎ、とか?」
タルーラがはぐらかした。ドーはそれに気づいた。タルーラがタルーラなだけで、敵は自動的に増えていくような世の中だった。そんなことはわかりきっている。
タルーラがあえて口にしないだけだ。
「わお、そいつらに同情するね」
ドーがわかったことを、タルーラもわかっていた。
「ありがとう」
「君とのレスバには勝てねえわ」
「グラシアス」
ドーは黙り、不自然な間を開けた。

「でさ、君はセラピストかなにかのつもりなのか?」
「いいや。でもあんたより長くの時間を、人間ってのを見つめるのに費やした自信がある」
「へえ、いいね。それで俺のことも分析できると思ってるんだ。兄貴のことも分析したのか」
「そうよ。ちょうどいいじゃん。ヴィニーの話が聞きたいんでしょ?」
「いや結構ですね」
「聞きたくてここに来たんでしょうが」
「違うって」

タルーラはゆっくりと息を吐いた。

「あの人はね」
「別に教えてくれなくていいから」
「冷たく見えるけど、誤解されやすいだけだったと思うんだ」

ドーは荒々しく席を立った。

タルーラは少し迷った。この人は他人だ。ヴィンセントじゃない、関係ない、何も変わらない。別にこのまま出て行かせたってかまわない。ドーがドアに手をかけた。このまま出て行かせたら、言いたくもないことを言わなくていいし、もう見たくもない過去を掘り起こさなくても済む。この人にもう二度と会うことはないんだ。そう二度と会うことがないんだ。

タルーラは席を立ってドーを追いかけ、ドーの肩の横から手を伸ばして乱暴にドアを閉めた。進路がなくなったドーはタルーラの方に振り返り、衝動的にタルーラを押し除けようとした。タルーラはひるまなかった。ドーはそのまま乱暴に気の向くままタルーラに手を伸ばしてタルーラを掴もうとした。タルーラは暴れる猫を嗜めるように、ドーを止めようと手を出す。ドーが激しくふり解いたせいでタルーラの爪がドーの腕をかすめ、縦線を引くように出血した。ドーの手がタルーラに殴りかかるような素振りを見せ、何度か手が当たった。ドーは体格の良いタルーラには敵うはずもなく、身体がそれを分かったかのように自暴自棄になっていった。しだいに動きが弱くなっていく。ドーは肩を振るわせて、うううと唸った。

ドーは泣きだしていた。

タルーラがそれに気づく前に、ドーはタルーラにしっかりと乱暴に抱きついた。タルーラは一瞬困惑したが、ドーの震える肩に気がつくと、あら、そうきたかと理解し、少し目を泳がせて迷ってから、ぎこちなく大きな両腕をまわした。

ドーは泣いて、泣いて、泣きじゃくった。しばらくそのまま抱き合っていると、ドーが少し落ち着いてきたのがわかった。そして震える鼻声で絞り出すような声を細々と出した。
「ごめん…なんかほんと…大人げないよな」ひっく。鼻をすする。
タルーラはその声を聞いてなんだか滑稽な気分になり、少し笑ってしまった。
もう一度ドーの肩に回した腕に力をこめた。
「ごめん…」
よしよしと肩をたたく。タルーラは目を閉じた。

「大人も子供もおっさんも関係ないって。大事な人がいて、いなくなって、寂しい。なんでいなくなったかもわからない。それだけ」

しばらくして、ドーは震える声で言った。

「兄貴は幸せになれなかった」

タルーラは目を閉じたまま、何も言わなかった。

「家族が兄貴をめちゃくちゃにした。本当に、クソみたいにめちゃくちゃにした。俺は知らなかった、俺もその一部なんだ」

ドーは泣き止んだが、落ち着いて、またつぶやいた。
「兄貴はなにもできなかった」

タルーラは言葉に力をこめる。
「そんなことない」

「兄貴は、幸せじゃなかった」

ドーはゆっくりと繰り返した。同じ否定の返事がもう一度聞きたい、みたいに。タルーラの心が急にひんやりした。私だって確信があるわけじゃない。簡単な慰めを与えたくない。私は利用されたくない。私は会話がしたいだけだ。欲しい答えをやすやすとあげてたまるものか。

「そう、その通りかもね」
タルーラは冷たく言葉をはたき落とした。
「兄貴はめちゃくちゃだった」
「あんたはあいつを知らない」
「もっと話せばよかった」
「その通り」

「……会いに行かなきゃよかった」
「そうだね。来てほしくなかった」

しばらく沈黙が流れた。
ドーは答えを噛み締めるように、腕に力を込めた。
「めちゃくちゃ怖い」

ぽつりと独り言のように言葉を落とす。

「俺もあの時の兄貴みたいな考えになる時がある、分かってきてるんだ、最近、それが、本当に、怖い」

タルーラは腕を回したまま目をあけ、壁をぼんやりと見つめて考えていた。
ハグはいいよね。本心を言う時、目を見ないで済む。私たちにはおあつらえ向けの方法だ。
タルーラは唾を飲み込み、言った。

「ヴィンセントは人間だよ。ひとつの考えだけを象徴して、振りかざして生きてた怪物みたいな物言いじゃん」

ドーは弱々しく、笑いのような嗚咽を漏らして返事をした。タルーラは腕を解き、身体を引いてもとの場所へ座り直した。ドーも血のついたアロハシャツで涙と鼻水を拭うと、とぼとぼと椅子へ戻った。

楽屋は静まり返っていたが、今はそれが心地よかった。タルーラは思った。本音の絨毯がやっと敷かれたってこと。そんな時は、矢印に向かって歩いてみるしかない。

「こういうときしか言えないから言うけど」

目線を斜め下に置いて、一言一言を重く、低く発する。

「言葉にしにくいものって、どんどん大きくなるんだよ。ほんと、ベッドの下の怪物みたい。隠れてるものほどわかんなくなって、みんな忘れたと思い込んで、誰も口にしなくなるんだ。そして気づいた時にはもう爆発してる。ばん」
タルーラは寂しそうに笑った後、まっすぐドーを見た。
ドーは頷きも、否定もしなかった。またシャツで乱暴に顔を拭おうとする。腕からでた血が顔につきそうになると、タルーラが慌ててタオルを差し出した。
「ごめん、汗臭いけど」
ドーはありがとうと言って受け取った。

「私も音楽をやれって言われてなかったら、絶対あんたみたいに闇雲になってたと思う。でないと表面化しないことが多すぎて」
タルーラは肩をすくめて続ける。
「まあ、こんなのはお遊びでまやかしだって言う人が多いんだけどさ」
ドーは続きを待った。だがタルーラは話すのをやめて、ドーへ向き直った。
「そうだよ、私のショーはどうだった?」
ドーは鼻を汚くすすったあと、肩をすくめて素早く返した。
「とっても良くできてたよ、セットリストも緻密に計算されてたし。輝いてたね」
タルーラがゆっくりと言いなおす。
「『あんた』は、ショーを見て、どう『思った』の?」
ドーがまた黙り、ため息をついた。
「わからない」
やっぱり。
「個人的な感想でいいんだってば。一般論じゃなくて」
「つまんないだろ、素人の感想なんてさ」
タルーラは首を横に振った。そんなことない。
ドーは何秒か考えてから、慎重に口を開いた。
「そうだね、俺は君が逃げてるみたいに見えた。ほらあれ、『悪魔のいけにえ』のラストみたいにさ」
ドーは居心地が悪そうにタルーラを見る。タルーラは意外な答えに拍子抜けした。頭の中で映画のイメージをこしらえてみた。最後に生き残った女の子が、服と髪の毛を血で真っ赤にして叫びながら逃げ惑っているイメージが浮かぶ。悪くない。生き残るために作られたキャラクターだ。ただハリウッドの「最後の子」に選ばれるテストがあったとしたら、自分みたいなのは落第だろう。タルーラは失笑した。でも、
「そう見えたのなら、そうなのかもよ」
からかわないでくれと言わんばかりに、ドーは不服そうに顔をゆがませた。皮肉を込めて両手をひらひらさせ、タルーラをわざとらしく示す。
「自信たっぷりで『正面から向き合うこと』の象徴みたいな存在が?一体何から」
やっぱり。言わないだけで、本当に無いことになっていくんだ。
タルーラは自分のことを説明しないといけないような気持ちになることに、疲れ果てたことがあった。そして数年前から何も言葉にしないことにした。自分のつくる音楽のなか以外では。

タルーラは、別に重要じゃないけど、みたいな手振りを交えながら言った。
「そりゃ、全部。与えられたもの、自分からぶつかってったもの、心当たりのあるものからは全部逃げてきた覚えがあるね。故郷、仕事、結婚、エディス、アンガス、モラル、そしてヴィニー」

タルーラは言葉が次々と出てくる流れを感じ取って少し怖くなり、脳にストップをかけた。ドーがぎこちなく椅子に座り直す。タルーラの言葉を待つが、何も言わない。ドーは沈黙を埋めるために、腕の傷口にタオルを当てた。顔をしかめながら血を拭いて顔を上げ、ぽかんとしばらくタルーラを見つめた。それでもタルーラは何も言わなかった。

ドーは片眉を少しあげて、小さくつぶやいた。
「言いたいことが残ってんなら、ご自由に」

タルーラはゆっくりと息を吸った。言葉に感情を込めないよう、細心の注意を払う。これはあくまでも引用です、という風に聞かせたかったが、効果があるかどうかはわからなかった。

「ヴィニーが本当にひどくなったのは、あんたが来たすぐ後だったんだよ」

ドーは足元をじっと見つめていた。兄のように、感情が読めない表情をしている。なにかを、早く浮かばせてやりたい。タルーラはまた言葉が波のように押し寄せてくるのを感じた。
「誰も止められなかった。あいつは何も言わないの。でもあんたが来て、確実に変化が起きたのは分かりきってた。あいつが何を考えて、何を感じたのか、なんにも聞きだせなかった。踏み込めなかったの」

タルーラはふいに地面へ沈んでいきそうな感覚になり、パイプ椅子のふちを必死に握りしめた。タルーラにはドーを責める気なんかない。まだ何も言わないドーをみて、自分が悪魔にでもなったような気分だった。

誰かと正面から向き合うことは、どちらか片方だけの都合で成立する。そのせいで片方が傷ついて、破滅。お決まりのパターンだ。

あの時「弟くん」がヴィンセントに会いに来た時、それを間近で目撃した。兄に手っ取り早く本音を言わせて、電話線の穴をゆっくりと指差して、静かに自分たちの場所を壊していったのだ。それをドーに伝えずにはいられない自分が嫌になった。自分なんかを棚に上げて何を今さら。自分だってまさに、ドーを使って勝手に事実と向き合おうとしてるんじゃないか。

静かにパンチを食らったような顔をしたドーが口を開けたが、タルーラが遮った。

「でもあんたが正しい。誰のせいでもない。誰のせいにもしたくない。そうだよね。もういない人をただのボールみたいに私たちでコロコロ勝手に転がしてつついて、慰めあうなんて気持ち悪い。他人の人生なんて決めつけても誰も嬉しくないんだし」

問題は、どれを共通認識にしておくかだ。何がほんとうにヴィンセントを「終わらせた」のか、明らかにしなければ。タルーラはドーの両目を交互に覗き込むと、呪文のようにはっきりと発音した。

「フェンタニル」

ドーは表情を変えないままうつむき、ああ、あれか、と小さくつぶやく。フェンタニル。比較的新しくできた強力な鎮痛剤だ。

「最後の最後はあれが原因だった。他のと混ぜて、いろんな人に売り捌いて稼いでいってさ、医科大学からツテがあるとかなんとか言って。そんで私たちもやり出した。頭のいいやつが才能を無駄遣いして、それを楽しんでるなんて。もったいないねえ…ってみんなが言うの。でもそんなインスタントなお楽しみには終わりがつきもの。そんで偶然が引き金になって……」

ドーはうつむいたまま、ただぱちり、ぱちりと瞬きを繰り返していた。

「終わった」

タルーラは長い爪で、自分の唇に触る。本音が言える残り時間にすがりつくかのように、早口で言った。

「口にだすとドラマの簡潔なあらすじみたいに嘘くさいね。なんでだろ……。でも誰も知らないこともある。意味がわかんないくらい、何もかもが停滞した生活の中で…あいつは私に、あんたの記憶とは真反対の思想を植え付けていったんだよ」

ドーはタルーラの声が少しうわずったのを感じ取り、顔を上げた。

「やっと都会に出てきたっていうのに、育った町のせいで一つの考えにずっと縛られててさ、私。でも横を見たら、ヴィニーがきょとんとした顔で、え、当たり前じゃん、みたいに言うんだ」

タルーラはドーに向き直った。ドーが静かに目を合わせる。お話の続きを聞きたがる子供のような目だ。タルーラはそんな人間に物真似をやってみせるのが好きだった。
ありったけの低音で、冷たく、平坦な声を出す。

「神サマがお前の身体を持ってると思うなら、そいつから盗めば」

ドーが、ぷはっと笑った。

「まあ、パンクロックだねえ。セックス・ピストルズが聞いたら喜んでさっさと歌にしそうだ」
タルーラは満足そうに足を組み、椅子にもたれかかった。
「いや、ほんと。いちばんやばいのは、この言葉が何にも影響されることなくまっすぐ自意識から出てきたとこよ。ああ恐ろしい」タルーラはわざと震えてみせた。

タルーラは詳しく言わなかった。初めて少しだけ『逃げて』夜の街に繰り出した日、一瞬だけ居場所を見つけた気がした。そして同じ日にあっけなく、そんなものは最初からないことを思い知らされる。あざだらけになった体で、平べったい道をペタペタと歩いた。思い出したくない。思い出したいのは、出会いがあって、ヴィンセントの車に乗って、新しい居場所が見つかるかもしれない、という絶妙な予感があったこと。仮に無いんだとしても作ればいいと言う楽観的な使命感。そして次に何かに手を伸ばすときは、死ぬほど計画を立てて挑んでやるんだという覚悟だけだ。

ドーは寂しそうに顔を傾けた。タルーラはそれに気づいた。

「あいつはほんと、何にも気にしないか、めちゃくちゃ気にするかのどっちか。あと10年くらいあとに生まれて、この時代に子供だったりしたら、うまくかみ合ったのかもしれないね」
ドーはうなずいた。
「あとイギリスのアナーキストの一家にでも生まれていれば…あるいは、かもしれないな」

タルーラはわざとらしく顔をくしゃくしゃにして、イギリス英語をまねてみた。
「『ノー・フューチャー!』って?」
二人は笑ってはいけない場面で笑っちゃった人たちのように、バツが悪そうな音をたてた。
「やば、めっちゃ似てるじゃん」

タルーラは、本音が言える空気の残り時間を感じていた。そろそろ耐えられなくなる。
しかしドーは、まだすがりついているようだった。滅多にない機会なんだろう。こびりついた自動的な笑顔を急いで消そうとするかのように、手で口と鼻をこすりながら言った。

「なんども、兄貴の論理を読み解こうとした。けどパターンがないんだ。俺が覚えてる兄貴の考えには。なんとかして読み解こうとして、勝手に想像して、兄貴と同じことをしてみようと思ったのかもしれない」

ドーは両手を膝に置くと、自分の手のひらをじっと見つめた。

「どうせ頑張っても誰も何者にもなれないんなら、最初から何にもならないようにして、全部くだらないと思いながら生活してみようかなって。ほんとうに楽しいのかどうか試したかったんだ、多分。疲れたって言いながら終わりを待つだけなのがほんとうに楽しいのかどうか…」

タルーラは数回瞬きしてから考えた。
ドーにまとわりつく兄の言葉はリアルだった。そしてタルーラの思い出も幻想なんかじゃない。

しかし所詮他人だから、その人の全てなんて分かるわけがない。お互いの頭の中にたまたま同じ人間が浮かんでいるだけで、その二つは繋がるわけでも、互いに分かち合えるわけでもない。
私たちはただ、想像することしかできないのだ。

タルーラは身震いした。
想像することしかできない。

「私たち、結局みんなそうなのかもね。待合室で名前呼ばれるのをただ待ってるだけって感じ」
ドーがまた貧乏ゆすりを始めた。
「そう。つまんねえ。もうほんとに、くっそつまんねえ」
「それ、友達には話してみたことあるわけ?」
「いや。それこそくっそつまんないから話せないよ。こんな話」

ドーがそう言い放って微笑んだ時、タルーラは寒気を感じた。そうだ。まただ。普段は隠れているけど、色んなところでふと見かける顔。死ぬのが怖くなくて、怖くてたまらない人たちの顔だ。
あいつも。こいつも。ひとりぼっちで。
鏡の中の私も。なんなんだよ。
私たちは若くて、バカなのに、なんでこんなに疲れているんだ?なんでこんなにたくさんの可愛い顔たちが、台無しだねって言われる運命にあるんだ?
タルーラはやるせなさに叫びだしたくなった。
私たちのもったいないくらい可愛い顔が、輝く日が来るべきなんだよクソが。

タルーラはふうっと息をはいて心を落ち着かせ、次の曲は『可愛い顔が台無し』っていうタイトルにしなくちゃいけないなと自分に言い聞かせた。それが形になるまでは…今のうちは。考えるより先に、無意識に言葉が出ていた。

「じゃ友達とご飯にでも行けば」

ドーはきょとんとした。
「は」
「ドツボにはまったら、ご飯って相場が決まってんの」
「ゴハン」
「マクド、ピザ、スシ、なんでもいいから。死んでる人間にはできないことじゃん」
「はあ」
「そうでもしないとやってらんない。あんたは真面目すぎるんだよ。住職か」
「そんなの初めて言われた」
「住職って知ってる?」
「ちがう、俺のこと真面目って」
ドーは前かがみになり、机に頬杖をついた。
タルーラは目線をまっすぐドーへ向ける。
「何も意味がないと思ったら、美味しいもんでも食べるんだよ。薬品を流し込むんじゃなくて、消えようとするんじゃなくて、消そうとするんじゃなくて。試しになにかをとことん食べることを選ぶの」
「それで解決すんのかよ」
「しないよ、何も」
「それはそれで問題になる奴もいると思うけどなあ。コレステロールとかさあ」
「少なくとも、私が選ぶのはこれ。食べることと、飾ること、そんで変化を求めて叫ぶこと」
タルーラはお茶目に眉を吊り上げてみせた。
自分の毒を知ってる奴は、強い。ドーは尊敬をこめて付け加えた。
「そんで、人を叫ばせること、とか言いたいんだろ」
タルーラは満足そうにフンと笑った。
ドーが肩の力を抜いて笑う。椅子の背にダラリともたれかかった。
「なんかこんな話、くっそくだらなくなってきた」
「それでいいの」

タルーラはもういちど力をこめて言った。

「それでいい」

しばらくしてドーがゆっくりと立ち上がった。ポケットに手を入れてバランスをとる。
そして力の抜けた、大きな声で言った。
「タルーラ・バルバ」
タルーラは片眉を上げてドーの顔を覗き込んだ。
「なによ」
ドーは片側だけ笑顔を作った。
「誰がなんと言おうと、『俺』は、『君』はスターだと思うよ」

タルーラは目を見開いた。強烈にこみ上げてきたものが一体何なのかわからなかった。嗚咽を漏らして手で口を覆い隠す。ドーが目をぱちくりさせてタルーラをのぞき込む。
「ごめん、あまりにも声が似すぎてて」
ドーは答え方がわからない、と言うように肩をすくめてみせた。
落ち着きを取り戻そうとすればするほど、手が震えてくる。タルーラは悪態をつき、あえて大袈裟に机に突っ伏してみせた。頬を机につけたまま目をつぶり、ぶつぶつと喋る。
「ああもう、本当に……会いたすぎる」
「そうだな…思い出させちまってごめ」
「アンガス」
「そっちか」
「アンガス……」
ドーがはぁ、とわざとらしくため息をつき、タルーラに近づいた。身を乗り出して怪我した腕を後ろに回すと、反対の手をついて重心をかけた。指で机をパラパラと叩く。
「だからまあ、ちょっと待ちたまえ。任せたまえよ」
タルーラがゆっくりと頭を起こし、ドーを見上げた。ドーが得意そうに続ける。

「えっと、俺は知り合いが多くてですね?」

コズモとAJはドーの家へ向かっていた。

コズモが横で運転しているAJの腕時計にちらりと目をやると、夜11時を過ぎたところだった。AJは少し寄っていいかとコズモに声をかけると、側道に車を停めた。コズモも車から出て外の空気を吸うことにした。AJは少し先の公衆電話へと、早足で歩いていった。

コズモは車にもたれかかり、目の前に広がった平らな4車線道路をぼうっと眺めた。太陽が沈んですこしだけ肌寒くなった空気を肌で感じる。この道はハイウェイにつながっている道だから、滅多に信号が赤にならない。車がヒュンヒュンと目の前を通り過ぎていった。車の通り風を肺いっぱいに吸い込んでみる。遠くでエンジンをふかすくぐもった音がタイミング良く聞こえてしまい、まるで自分がガスをまるごと吸い込んでしまったような気持ち悪さを感じた。あまり外の空気を吸うのに最適な場所ではないみたいだった。
いつも分かっているのにやってしまう癖を直したかった。

横からかちゃりと乾いた音が聞こえてくると、AJが疲れた目を擦りながら鉄の電話ボックスにお金を入れているのが見えた。受話器を耳にあて、反対側の手を腰にあてる。

「あ、どうもこんばんは。寝てました?いえ。報告が遅くなりすみません」

AJは相手の返答を聞いた。しばらく相槌を打つことなく、ただ上を見上げていた。
考えがまとまったらしく、真っ直ぐに向き直る。
「そうなんです。タルーラ・バルバさんの…え?あ、そうです。タイソン・ハワードさんの精神状態の所感なんですけれども、これといった……」
AJは途中で口を閉じると、唇をなめた。自分の話を遮られた時に出る仕草だった。それから相手の言葉に反応すると、眉を上げて短く笑う。
「そりゃまた。大層なご意見をお持ちのお客さまですねー。……はい。すみません。慎みます」
AJはしばらく話を聞いたあと、首を傾げた。
「そこなんですよ。ずっと気になっていたんですけど、今回の案件はこちら側の有利に決まってます。なぜあそこまで強い主張を『わざわざ』されるんでしょう。……首を突っ込むことじゃないのはわかっているんですけど……はい。違和感が拭えなくて……」
AJはしばらく眉をひそめながら上司の話を聞き、言った。
「わかりました」
全くわかってないような表情だった。
「では明日ですね。すみません夜遅くに」
AJが受話器を置いて戻ってきた。コズモに向かってあくびをしながら言った。

「この仕事が大好きだよ」

二人はドーの家の前の階段に腰掛けていた。
電気がついていないことを確認し、コズモが「やっぱり」といい、AJが「は?やっぱりってなんだよどういう意味だよ」と言い返したあと、二人は他にやることが見つからなかったからだ。

しばらく体操座りをしていると、コズモがふいに口を開いた。
「あいつさ、なにも言わずにふらっとどこかに行くような人間って感じがするんだよな」
AJは外を眺めたまま、何も言わなかった。コズモが続ける。
「……あいつと話してたら、なにが本当にそう思ってることで、何が出鱈目なのか、ふいに分かりそうでわかんなくなるんだ」
AJはまだなにも答えない。
「でもさ、おれたちがこの歳になっても、高校生みたいに人ん家の前で体操座りすることができてるのって、あいつのおかげなのかも」
AJが限界に達し、コズモのほうへゆっくりと顔を回した。
「あいつ……死ぬのか?」
「え?」
「もうやめてくれ。縁起が悪いこというなよ。もうしゃべるな」
AJがそわそわしていた。コズモも急に落ち着かなくなった。

そんなとき、側道からうぇぇ、ぺッと唾を吐く音が聞こえた。コズモとAJは顔を見合わせ、様子を見に行った。

ヨレヨレの汚いアロハシャツを着たドーが足を引きずりながら、こっちに歩いてくる。
街灯が当たると、右目のあざはもちろん、腕も傷でボロボロになり、目もひどく腫れ上がっているのが見えた。まるで休暇中にクーデターかなにかに巻きこまれて、無事生還した観光客みたいな風貌だ。

コズモがドーに近づくと、眉間にしわをよせて叫んだ。

「一体どうしたんだよ?ドー(Doe Deer, what’s the matter?)」

ドーは声に気がつき、キョトンとして立ち止まった。神妙そうな顔でドーを見つめるコズモとAJをじっと眺めると、顔がだんだんとこわばってきた。ドーは眉毛を八の字に下げたまま、思いっきり頬の筋肉を伸ばして横長の笑顔を作り、言った。

「なんにも」

コズモとAJは何かを感じ取ったみたいだった。何も返す言葉が見つからない。
数秒後、ドーは我慢できずにぶはっと吹き出した。そして笑いが止まらなくなった。だって二人とも、幽霊を見たみたいな顔してやがる。困惑する二人を置き去りにしてひたすら笑い続けると、溜まっていた疲れと足の疲れがどっと押し寄せてくるような気がして、それがなんだか嬉しかった。ドーは構わず笑いの波に身を任せながら言った。

「ちょ、おま……韻……めっちゃ韻……踏んだんですけど…ブッ…ハハハ」
「は?」

コズモとAJは訳もわからず、ひたすらドーにジト目を向け続けていた。
ドーは笑いながら、足の痛みをヒリヒリと感じて思う。
この街はやっぱり、車がないと人権がねえな。

つづく。

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