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2.2.2. 「茶道=資本」とする先行研究への批判

フランスの社会学者であるブルデューは,文化の正当性を維持する条件について以下のように触れた。

「習得と鍛錬の方法的組織化を介して伝達することを特に任務とする機関つまり学校によって,訓練され,教え込まれた特殊な型の体系に従って組織されている」〔1990a: 96〕

これはまさしく茶道の形態に合致する。

つまり,茶道はまずもって,文化的素養といった個人的「文化資本」であると考えられてきた。


ブルデューと茶道修練者研究

実際に,人々が茶道教室で何を得るのかについて分析する際,最も多く援用されているのはブルデュー〔1984=1990a, 1990b〕であろう。

茶道をする理由との関連として,茶道が象徴資本と文化資本を修練者に与え,それが女性修練者のエンパワーメントに繋がっている〔加藤 2004〕との叙述がある。
同様に,文化資本としての茶道が社会階層を決定づけているという議論〔大屋 2009〕でも触れられている。


象徴資本を得るためだけに茶道教室に通う修練者の存在をChiba〔2011〕も挙げていた。
そのような茶道修練者は,教室に通っていればある一定の社会的評価を得られる──実際に資本を得ているかに関わらず,文化的な威信を得ていると思われる──ことを期待している。


Skeggs〔2004〕も茶道のようなエリート層と結びついている(と考えられている)芸術は,適切な社会に参入することを望む全ての女性にとって,不可欠な知識であるとも言及している。

より直接的に言うと,非優勢的な集団にとって,象徴文化資本を得るために茶道をすることには,より階層の高い女性と平衡する目的がある〔Corbett 2009: 91〕とも表現できるだろう。



調査対象の母集団が,そもそも女性の割合が高かったことも原因だが,全て女性にのみ限定した結論になっていることが伺える。

本稿の主要なインフォーマントの男女比率を鑑みても,女性に限定しない文脈で,茶道に取り組む理由に触れることが求められる。


文化資本としての「茶道」

上で挙げた先行研究は全て,資本としての茶道を巡って議論している。

茶道が「文化資本」であるという出発点から考察が始まると,人々が茶道教室に通う理由は似通ったものになることが指摘できる。
少なくとも,茶道教室で文化資本が得られるという前提の元で調査を続けても,文化資本以外の理由は浮かび上がりづらい。

確かにブルデューのいう「純粋趣味」──生活やお金といった日常の必要性から距離を置こうとする振る舞いの一貫──は,それを学習させる「学校 [注3] 」で習得できるとされる。

純粋趣味のために茶道教室に通うと結論づけることは,この既に議論され尽くした理由を焼き直す結果にしかならない。



純粋趣味以上の理由とは

趣味は我々と誰かを区別するシステムであり,人格判断の材料となるという前提が存在する。
しかしそこに私たちが期待しているのは,単に趣味を可能にする財力の誇示や,趣味を享受する悦びと言った表面的なものではない。

「利益」よりも遥かに大きな「社会的存在」〔ブルデュー 1990a: 356〕となることを期待しているのであり,「社会的存在」といった言葉で曖昧に表現されているものこそ,本稿で考察する必要がある。


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[注3] 本稿でいうところの茶道教室であり,とりわけ公民館やカルチャーセンターではない,個人教授の茶道教室である。(カルチャーセンターと個人教授の差異については第3章の3.1.1.参照)

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