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悪循環でしかない「努力」もある

人は「これだけ努力したんです」と言いたい努力をしているのではないか。

しかし「これだけ努力をしてるので」なんて,自信を持って言えない。できない人間だと思われることよりも,「これだけ努力してるので」なんて言い返せないのが悔しいこともある。
昔より今の自分ならもっと上手くできることも,確実にあるのだが。

目に見えて「これだけ努力」をしていた時期もあった。そして結果ではなく「visibleな過程」のほうを評価されていたのは,他でもない,結果が出なかったからだ。

努力が目に見えたところで,目に見えるような成果などなかった
傍から見て分かるような,人に言えるような「これだけの努力」に,一体どれだけの信憑性があるだろうか


ストレスが頑張りの証のような社会で,何か苦しい選択をすれば自分のためになるように思える。どれだけ「努力」したかを誰かに伝えたければ,どれだけ辛かったかを話せばいいのだろう。

じゃあなぜその「努力」は辛いのだろうか。

それは誰かに伝えるための「努力」だからだ。

人に伝えるための「努力」は,おそらく能力を証明してくれない。費やした時間の長さを示してくれるだけだ。

加えて厄介なことに,苦しんだと誰かに伝えた分だけ,何か成果を出さなければいけないと感じてしまう
それでも辛さを話すことでしか,成果の出ていない今の状況を肯定することができない

成果も無く肯定もできない場合,自信はどこから持ってくるかといえば,過去にしてきた「努力」からだ。ここでいう「努力」は,何かしらのしんどい経験であることが多かった。この悪循環。


しかし本当は,目に見えない成果に焦らされて「こんなに頑張ってるのに」と思ってしまうようなものなら,手放したっていい。

それしか悪循環を止める方法はない。
 

結果が出なかったときに「努力が無駄だった」と言われないよう,予めしんどさを伝えて予防線を張らなくてもいい。

「努力が無駄」と思わないような人や,もし失敗してもそれを報告できるぐらい信用してる人にだけ,何を何のために取り組んでるか伝えておけばいい。

他人に示すための努力をやめると,ただ辛いだけの努力をしなくなる。今苦しんでおけば将来どこかで役に立つかも,と思ってする苦労ならしないほうがいい。
わざわざ抱え込まなくても,人間どこかで苦労する。それなら,それが目に見える形であってもなくても,買ってでもしたい苦労からすればいい。そしてそれは自ら望んだことなので,“苦労”なんかではないのだと意識すること。

そうやって人に示すための「努力(=わかりやすい尽力)」をやめると,もう人に言い返すことも,周囲の共感を得ることもできないかもしれない。

でも,苦しい努力をしなくてよくなって,買ってでもしたい努力に取り組んでいられるときにはもう,言い返すことも周りの共感も必要なくなっている

その状態でなら,「ストレスフリーな努力」ができるはずだ。

「頑張りたい」努力について,Twitterでも話していました。
目に見えて「毎日のお茶」を頑張っていた記録はインスタにも笑

「人に見える部分」の話は上の記事でもしています。実は話が繋がっているかもしれません。


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