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4.6.2. 流派への想いの二重性:感謝と個人的思惑のアンビバレンス

流派への「感謝」に加えて

どのインフォーマントも,常に流派への尊敬の念と感謝を述べていたが,その経緯は単純なものではない。

まずどのインフォーマントも,茶道の土台を作った流派への尊敬の念は口にする。


「茶道団体」の活動が「茶道」であるには,流派や家元がまず存在しなければいけなかったと考えていたのは大輔さんだ。

海外の門弟もお茶を習える環境をつくったから,あれだけ海外でも茶道が認知されてるので。
僕たちはそういう(流派が)地ならしした上に,たまたま遊ぶ [注54] チャンスがあっただけで,僕らがそれを切り拓いたわけではない。

また,レナさんは「茶道」と出逢って人生が変わり,「起こったことは消せない」と,「茶道」から受けた影響を全面的に受容していた。

洋平さんも,流派側が守ってきた仕組みやその積み重ねに対して,尊敬の念を持っていると語る。
その一方で,「自分は別の方法で(流派に)還元する」と意思を示した。


自分の主張を述べる際であっても(もしくは主張するときだからこそ),流派に対する感謝や尊敬の念は,枕詞のように発言の頭につく

アナキズムのような思想との違いは,ここにあるだろう。


既存の茶道の上で「自分のお茶」をする

そしてどのインフォーマントも,流派という枠は,不自由の原因ではなく,「表現」を考える基盤になっていると語る。

0から創り出すことよりも,既存のものを「エディット」することを好んだのは智子さんだった。(4.2.3.参照)
智子さんに共通する姿勢は,以下の大輔さんの発言にも見られる。

よく自分の流派を作りたいと思わないかとか,(流派と)違うことがしたいのかとかよく聞かれるんですけど。
僕は裏千家という流派に所属しているし,裏千家の考え方がすごく好きなんですね。
その上で,今自分のできる表現は何かと考えている方が楽しいですよね。

考え方が好きでも,そのまま「模倣する」「踏襲する」という発想にならないのが,「茶道団体」の代表者の特徴でもある。


大輔さんのいうところの「自分のできる表現」といった,独自の「お茶」を追求する姿勢として,最も象徴的だったのは翔太さんである。

自分の価値観や美意識といった理想が,千家(流派)の茶道と異なることをきっぱり明言していた。

他の人の茶室を真似しても意味はなくて,自分の価値観とか美意識ってなんだろう,自分のお茶ってなんだろうって考えると,別に流派のお茶じゃないんですよ。
だから点前も自分で考えていいし,俺の茶室はこういう風にすると(自分が決めていい)。
だって自分の宇宙だから。

ただし翔太さん自身は,茶道を始めて以来,現在もある流派に所属する師匠の元で稽古を続けている。

大輔さんが茶道教室で習った内容の上に「自分のできる表現」を積み重ねていると考えているように,「自分のお茶」の希求と稽古は,本人たちにとっては背反するものではないのだろう [注55]。


教授者としての視点(1)

このように,仮に流派とは一部やり方や考え方が異なるからといって,すぐに流派から離れるという選択をするかというと,そうではない。

そこには実利的な理由が見え隠れする。

例えば達也さんは,現在師事している先生が,より位の高い先生を勧めてきたことに関して,以下のように語っている [注56]。

達也さん
先生が勧める人と僕がつきたい人は違うんですよ。
先生が勧めるのは小さい(教室の)教授で,僕の方が目立っちゃう。(略)
もともと有名な先生なら,『先生ほどではないです』って言っておけばいい。
大規模な教室なら,一人ぐらい目立たないし。


矢島
「ご自身が有名になると,先生を探すのも大変なんですね。
先生につかないとかは考えたことはありますか?」

達也さん
先生についた方がいいと思います。
つかなかったら,お山の大将になっちゃう。
成長が止まる気がする。
お中元とか面倒臭いことがあった方がいいんですよ。
自分がやってたら,みんな(生徒)に伝えられるでしょ。
『どういうときでも先生についた方がいいよ』って。

これは自身も茶道教室を運営しているからこその発言である。


自身の師匠から自身の生徒へと,循環するジレンマを生きているのが,本稿の主要なインフォーマントである。


教授者としての視点(2)

達也さんは,自分もしていることなら生徒にも勧められると語った。

逆に,自分はしても生徒には勧めないと語った人もいる。

流派からほぼ直接的に指導を受けられる研究会という場や,地方支部の集まりや青年部(主に45歳以下)といった流派独自のコミュニティはいくつか存在する。

しかし当然のごとく,参加費は無料ではない。

「そんなところに毎年行くぐらいだったら,茶碗買った方がいい」と考え,自身の教室の生徒には参加を強要していないと述べたインフォーマントがいた。


しかしそのような流派へ支払うお金については,「お布施だと思って」,「もちろん(自分は)納めますよ」と話す。


茶道から得られる「メリット」とは

ある「茶道団体」の代表者は,「本当はこれ対外的には一切言えないんですけど」と前置きして以下のように話した。

流派にみかじめ料を払った方が,彼らが潤うので色んなことできるんでしょうけど,流派単体が繁栄しても意味ない。

すなわち,流派に直接お金を納めるよりは,「茶道団体」の活動に参加した人が茶道具を買ったり,流派の主催する茶会にも参加したりするようになると,巡り巡っていずれは流派に還元されると説明する。


続けて付け加えた以下の発言は,本稿の要点を端的に言い得ている。

自分は流派を確実に利用できていて,メリットは享受してるので。
それはもう,もちろんちゃんとお金を払う気にもなりますけど。
お茶のお稽古をしてるだけだったら,なかなかやっぱり(メリットを)感じ取るのは難しい。

すなわち,教室に通うだけの茶道修練者に比べ,より多くのメリットを受けられる在り方が「茶道団体」であったということだ。

流派に納めた金額以上のメリットを得る方法,とも換言できるだろう。


では,このインフォーマントが享受している「メリット」とはなんだろうか?

考えられうる答えは,次の小括第5章で示したい。


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[注54] 自身の活動を「(こっちは)遊び」と表現したのは,大輔さんだけであった。自身の運営する茶道教室と「茶道団体」での活動を区別する文脈であったように思われる。第5章での彼の語りも統合すると,仕事と「お茶」に隔たりはないが,「お茶」の中には区分が必要だということだろう。
[注55] 第5章(5.2.3.)で詳しく述べるが,茶道の教授者になる意思がないと明言したのも翔太さんだけであるため,そこは「自分のお茶」と千家の茶道が反するという点で一貫している。生徒として茶道教室で学びはするが,自分が教授者になってその内容を教えることはしないということだろう。
[注56] 茶道の教授者の中にも階層があり,岡田さんが師事するように勧められた「宗匠」とは,家元により近い(=位の高い)人物を指す。つまり多くの場合は,現在師事している先生の上に,さらに位の高い教授者が存在するため,生徒の習熟度に合わせて教授者の位も上げていく(≒茶道教室を変える)ことも考えられる。

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