【1話完結小説】あなたのそばにも主人公…
編集との打ち合わせが長引いてしまった。深夜、帰り着いた自宅マンションのホールでぼーっとエレベーターを待っていると、後ろから急に声がする。
「アンタ、自分の書いた小説の主人公を全部覚えてるか?」
振り返ると、薄汚れた作業着姿の中年男が立っていた。いつの間に現れたのだろう。ヒョロリと背が高く、無精髭の生えた頬はこけ、目だけがやたらギラついている。ジャック・バウアーからガタイの良さを抜き取ったような風貌だ。ちなみにジャック・バウアーを知らない人はスルーしてもらっても全然構わない。
「なぁ作家大先生よ、答えろよ。全部覚えてんのか?」
男は再び問いかけてきた。
小説家としてそこそこの地位を確立し、最近は雑誌やTVの対談もこなすようになったせいか、顔バレしてこんな風に町で声をかけられることがある。有名税というヤツだ。
しかし決めつけは良くないのだろうが、この男はお世辞にも小説を愛するタイプには見えない。口調からして好意的な声かけでないことも明白だ。アンチか?輩か?私は頭で考えを巡らせつつ、努めて冷静に質問の答えを口にする。
「…そうですね。自分の作品には愛着があるので、主人公は我が子みたいなものです。勿論みんな覚えていますよ。」
それを聞いた途端、男は引き攣った笑顔で言った。
「ハッ、そうかい。なら当然俺の事も覚えてんだよな?」
「…えっ?ちょっと何を仰っているのか分かりかねますが。」
どうやら私は不運にも頭のおかしな男に絡まれてしまったようだ。固まる私を前に男は捲し立てる。
「『下水溝』だよ、『下水溝』!」
「…はぁ。」
「まだわかんねぇのか!何が“作品に愛着がある”だ、ふざけんな!こっちはアンタのせいでこの30年ずっと暗い下水溝を彷徨ってたんだよ!」
「…はぁ。」
「アンタの気紛れで!下水溝にアルビノアリゲーターだの巨大ラットだの、挙げ句の果てに下水人類まで設定しがって!何度も死にかけたんだこっちは!」
___下水人類!!
私はその何の捻りも面白味もない単語で急に思い出した。あれは確か小説に興味を持ち始めた中学生の頃。遊びで書いた落書きのような物語の一つにそんなものを登場させたのではなかったか。
「…と…と言うことは、あなたは『下水溝』の主人公、汚水さん!?」
「臼井だよ!」
「あ、失礼しました。当時ウケ狙いで汚水にするか迷って、結局普通に臼井にしたんでした…。悩みに悩んで決めた事って、後になって結局どっちにしたのか分からなくなりがちですよね…。」
「知るか!お前が話に飽きて放置したせいで俺は30年間ずっと下水溝から出られなかった!」
「まぁ中学生のお遊びみたいなものですから…途中で収拾がつかなくなって投げ出したのです。でもなぜ今になって…?」
「細かい事は知らんが時空の歪み的なものができてこっちの世界に出てこれたんだよ!ホラそこの消火栓の横っちょあたりがモヤモヤしてるだろ。そっから出てきたんだよ。…そしたらどうだ。俺の物語を放置した無責任野郎のくせに、アンタはすっかり有名な作家先生になってるじゃねーか!」
「…すみません。」
「…書けよ。」
「え?」
「『下水溝』の続きを書けよ!下水人類のオデリアーヌと俺は恋に落ちてなんやかやなんだよ!アルビノアリゲーターの肉で下水世界のケンタッキー的な店が大繁盛しそうなんだよ!そして新たなピンチ!下水人類は未知のウイルスによる脅威に晒されている!!」
「いやー…ホント今更感が凄いですし、ちょっともう無理ですね。申し訳ないけど…中学生の発想にはやはり限界がありますよね…。私、今は感動系恋愛ストーリーで人気を博してる立場なので…下水とか汚水とか無理ですね…。」
「臼井だよ!!」
そう叫ぶと臼井は隠し持っていた鉄パイプでいきなり私を殴りつけた。余談だがバイオレンス作品の主人公は鉄パイプ振り回しがち…。頭に星がぐわんと光り、そして私は膝から崩れ落ちた。
*****
「オデリアーヌ、待ってろ…。必ず下水世界を救ってみせる!」
臼井はそう呟いて私を引き摺りながら時空の歪みの方へと戻って行く。なんとせっかく出てこられたというのに、健気にも戻って行くではないか。長く重い30年の歳月で臼井はすっかり下水人類側の人間になってしまったのだ。臼井の生活基盤はもはやあちら側にある。愛するオデリアーヌもあちら側にいる。
(なんだ、意外と壮大な感動系恋愛小説が書けそうじゃないか…)
私は引き摺られながら、薄れゆく意識の中で思った。仕上げた作品を下水世界で売り出せば全下水人類が泣くかもしれない。人類と下水人類版ロミオとジュリエット的要素を加えた、異世界冒険ファンタジーテイストで…とりあえずその際には訴求力ゼロの『下水溝』というタイトルを改変しよう…。映画化されちゃったらどうしよう。そもそも下水世界に映画ってあるのかな…?あったらいいな…。
*****
その後、人気恋愛小説家がマンション内で忽然と消えてしまった事件はちょっとしたミステリーとして世間を騒がせた。
なぜなら深夜のエレベーターホールを写した監視カメラには小説家一人しか写っていなかったからだ。彼は誰かと話すようなそぶりを見せた後いきなり倒れ込み、“見えない誰か”に引き摺られるような格好で画面から消えて行った。
中でもいちばん奇妙だったのは、カメラ画像は不鮮明ながら、小説家の顔は希望に満ちた少年のように笑って見えたことだという。
end
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