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【1話完結小説】良い母親

子供を持ってからずっと、「良い母親」の影が私を執拗に追ってくる。

そいつは時に私の母親の顔だったり、近所のママ友の顔だったり、情報番組のコメンテーターの顔で私をじっとりと見つめてくるのだった。
私が子育てで何か失敗をする度に、「昔の母親はもっと我慢強かった」「そんな接し方じゃ全然言うこと聞かないでしょ」「最近のお母さんは孤立しがちだから地域コミュニティをもっと活用すべきですね」としたり顔でまくし立てる。

先日、スーパーで子どもが興奮して急に走り出してしまった時などは、買い物客の顔をした良い母親が私を睨みつけてこう言った。
「まったく…躾もろくにできないなら外に出さなきゃいいのに」
正論すぎて返す言葉もなく、そしてまた正論すぎるからこそ私は大きなダメージを喰らうのだった。

良い母親はどこにでも必ず現れる。児童館にも公園にも親戚の家にも。育児雑誌の中にもSNSの中にも。地球上のどこにも私の逃げ場はない。

ある晩、仕事帰りの夫の顔で良い母親が言った。
「もう少し栄養バランスを考えてご飯、作ってやったらどうだ。よその子と比べてうちのはかなり小さい方じゃないか?」
私なりに、少食な我が子が少しでもたくさん食べるよう工夫してご飯作りをしてきたつもりだった。しかし、昨日「美味しい」と言ったものを今日は「嫌い」と言ったりする。そもそも気を使ってかなり少ない量のおかずを数品与えても「多すぎて食べられない」と泣きだす。作った食事の大半を残され、なす術もなくて私は途方に暮れているところだったのだ。
夫の顔の良い母親は言った。
「同期の〇〇君ちは簡単なご飯作りを手伝わせてるらしいぞ。自分が混ぜたり盛り付けた料理なら愛着が湧いて食べるんだって。お前もやってみろよ」
(そんな事、とっくに試してる)という言葉をぐっと飲み込んだ。

良い母親というのは、どうしてみんなこうも無神経で冷たいのだろうか。きっと、私に子育てさせてその様子を観察し、コメンテーター気取りでああでもないこうでもない、お前が悪いお前の接し方が間違っていたからこうなった他の人は良い母親なのにお前は…と落とし入れるのが目的なのだ。

自然と大声が出た。
「もううんざり!私だって頑張ってるつもりなのに!」
夫の顔の良い母親は驚いた顔をした。
「…なんだよ、別にお前を責めてるわけじゃねーだろ。こうしたらいいんじゃないかっていうアドバイスしただけだろーが」
「うるさい、うるさい、うるさい!」

そこへ子供が。子供の顔の良い母親が。とてとてと近寄ってきてこう言った。
「パパ、ママ、仲良くしなきゃダメよ」

ああ、世界がぐるぐると渦を巻く。良い母親しかいないこの世界に、果たして私の居場所はあるのだろうか。踏ん張っていないとどこか暗い所に吸い込まれていきそうだ。或いはもう私は半分ほど吸い込まれ、ねじ切れているのかもしれなかった。
ごめんね、ごめんね、ごめんなさい。良い母親になれなくてごめんなさい。

気がつくと夫の顔と子供の顔をした良い母親が私の背中をさすっていた。きっと今この瞬間、私がこの世界でいちばんの子供なのだろう。良い母親たちに育てられれば次こそは良い母親になれるのだろうか。そんなことをぼんやり考えながら、私は全てを忘れて深い深い眠りに落ちていった。

《了》

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