散文日誌「種々雑多」2022/05/07
鬱病という病とガッツリ付き合って間も無く3年。生きることを諦めようとした事もあった。でもその度に、自分を支えてくれている人の顔が浮かぶ。
助けられなくて、悲しむ支援者の顔。子どもに先立たれて悲しむ親の顔。自分の精一杯の治療が力及ばず、肩を落とす主治医の顔。どこから聞いたのか、自分の死を知って今更ながら友達顔して知れ〜っと現れる、もと同級生。
希死念慮は毎日のようにある。飯を食い終われば「ああ、死にてぇなぁ」とかいいつつ、目玉焼きが載ってたフライパンを洗い、ろくに拭きもせず、また使うからそのままでいいや。面倒臭え。どうせ私しか食わないんだ。虫が入ってしまおうが、取りゃ良いんだ。腹ん中入っちまえば同じタンパク質だ。構うもんか。…潔癖症でなくてよかったとつくづく思う。
ずっと前に、希死念慮は小さい頃から抱えているものだと書いた。言わばコンプレックスの塊。神様が土を捏ねてアダムとイブを作ったように、私はコンプレックスの塊を風船のように膨らませて、「希死念慮」すなわち「きしねんくん」という身代わりを心の中に作って住まわせたのである。
きしねんくんのお陰で、自己肯定感など一度も持ったことはない。顔は笑ってるけど、楽しそうに話はしているけれど、心の中にはいつも暗い影がある。だから、親しくしてた友達なんかほとんどいなくて、卒業式とかで泣いてるヤツの気が知れないと思っていた。中学,高校、短大も大学も大学院もそのあと知人とのお茶飲みもせず、酒も飲まず、ただ家に帰って何をしていたのか…。覚えてない。そのくらい、薄い人間関係。いや、私にはちょうどいい濃さだ。誰も私の抱えている問題などには関心はないのだから。
社会人になれないと思っていたが、一応なることができた。大体多くの仕事は大企業からいただく。この町の中小企業は、巨大企業のコバンザメのようなものだ。巨大企業はまるでジンベイザメ。親分が元気でなければ、コバンザメもくっついて泳がせてもらえない。この町のジンベイザメは例に漏れず、あまり元気がない。故に我々コバンザメの一員も肉食魚類に頭からガブリとやられる。つまりは、FIRED。「お前の代わりはいくらでもいるから」だとさ。そりゃようござんした。まあ、大雑把でいい加減ではなぁって思ってた。辞めさせられるたびに自己肯定感のレヴェルはほぼ0になる。最後の会社は、初めのうちは、仕事とはこんなに楽しいものかと思わせてくれた。しかし次の現場で体を壊した。心も壊れた。ギリギリまで踏ん張った。でも、雰囲気を壊すからいてもらっても困るんで、休んでくれって、部長が言うから、とりあえず、残ってる年休で、病院受診前の2019/5/9まで休業し、2019/5/10に現在も受診しているクリニックに通い始めたのである。
初めて先生に会った時、随分若い人だと思った。何を話していいかわからないので、ここに至るまでの顛末を話した。その時、「よく頑張りましたね」と先生が言った。そんなこと誰も言ってくれなかったので、大泣きしてしまった。それから毎週月曜日に先生のところに通って、間も無くまる3年。どれだけ迷惑掛けたか…というかどれだけお世話になったか…。先生に会わなかったら、私はもしかしたら、こうやって文章を書くこともなかっただろうし、この世にいたかどうか?
先生が発達障害について明るかったのも、暗闇を歩いていた私にとっては、幸運だった。今までの奇行や親に迷惑をかけていた原因がADHDであること。すでに二次障害を発症していた事、ASDとの混合でタイプである事…。謎は全て解けた!と思った。
今も悪夢やら、フラッシュバックやら、みぞおちの重み、倦怠感、希死念慮に苦しめられているけれど、絵を描く事で少しずつ良くなってきたように思う。
今度の先生への感謝の品は、私の絵を額装して渡そうと思う。
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