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うつ病になり、休職しました。

 小学校で担任として勤めております。教員7年目のひまわりの種です。先日仕事のストレスからうつ病と診断されました。現在は病休をとっております。休職(病気休暇)に至るまで振り返り、自分を見つめなおします。


仕事のストレスからうつ病へ

 うつ病の診断をされる2週間前から体に異変が起こるまでの様子を振り返ります。

  • 苦しいけれど、それはみんな同じ

  • 募る不安と失っていく自信

  • 眠れなくなっていく夜

苦しいけれど、それはみんな同じ

 職場で勤務しているときは様々なストレスを抱えていました。特にストレスだったのは保護者の方からの要望に応えることでした。教員は一日のほとんどの時間、授業をしています。それが一番大事な仕事だからです。その中で複数の保護者の方から求められたのは完璧な対応です。例えば、宿題です。丸付け、点検、管理を完璧にするのが教員の仕事だと言われました。本来宿題を見る時間は時間割に充てられていません。時間の合間を縫って、給食を詰め込んで、なんとか宿題を見ていたら、宿題の丸付けのミスを強く責め立てられました。心無い言葉を1時間近く電話で聞かされることが、しばしばありました。
 しかしながら、保護者の方からの対応に苦労している私だけではありません。他の教員も心無いことを言われても、なんとか踏ん張って、夜遅くまで残業して、子どものために授業を準備しています。私だけが苦しいのではない。甘えてはいけない。と、苦しい気持ちを相談できずにいました。

募る不安と失っていく自信

 保護者の方から電話がかかってくるにつれ、電話の音が怖くなっていきました。「次はどんなことを言われるのだろう。絶対にミスはしてはいけない。」と考えるようになっていきました。宿題の丸付け、授業中の声掛け、配りものの間違い、落とし物など無いように努めました。お子さんが自分でできるようになってほしい、自立してほしいと願っていたところもすべて私が管理するようになりました。それでもやはり電話が来ます。「子供が配りものを間違えるのは、あなたの愛情が無いからだ。成長しない人だ。」と怒鳴られました。今まで、楽しく、学びのある授業ができるように教員人生をかけて取り組んできました。研修にも参加し、授業研究、教材研究に力を入れ、単元計画も板書計画も書いてきました。授業を考え、子どもたちが力をつけてくれることが大好きだったからです。でも自信が無くなりました。ミスをしてしまう自分、子どもと楽しくお話ができなくなった自分、保護者の方からの電話に怯える自分が嫌いになっていきました。

眠れなくなっていく夜

 「今日どこかでミスをしていたら、どうしよう。明日はミスしないかな。電話は掛かってこないかな。」夜になると仕事の不安で頭がいっぱいになっていきました。眠りにつくまでの時間が2~3時間ほどかかりました。睡眠中も2~3回はトイレに行きました。寝れない時間は悪いことをたくさん考えるため、寝る時間が嫌いになりました。

うつ病診断へ至るまでの身体的精神的変容

 眠ることが怖くなってから1週間後に心療内科を受診することになりました。ここでは受診するまでの1週間を振り返ります。

  • 急に始まる動悸と止まらない涙と焦る旦那

  • 大好きな給食が食べられない

  • 1時間を切る睡眠時間

  • 児童の顔が見れなくなる

急に始まる動悸と止まらない涙と焦る旦那

 それは、夕食を作っているときでした。動悸がしだして、息苦しくなりました。料理を止めて、深呼吸しました。しばらくすると呼吸が落ち着き、料理を再開しました。夕食を食べている最中に涙が出てきました。隣でご飯を食べていた旦那が固まりました。どうしたの。と聞かれてもうまく理由が答えられませんでした。なんとか「仕事。」と答えると、旦那が「心療内科に行こう。」と言いました。その後、動悸と涙が出るのは1週間頻繁に起こりました。通勤中や就寝前、入浴中、食事中など、職場以外のどこでも起こりました。

大好きな給食が食べられない

 私は子供たちと一緒に普段から給食をいつも楽しみにしていました。「今日の給食は〇〇だね~。」「先生、今日は何の給食か知ってる?ぼく大好きなんだー。」と、子供たちと楽しくお話もしていました。しかし、動悸が始まったころから、給食が食べられなくなりました。食器の底が見えるくらい、一口で食べ終えるくらいまで減らすようになりました。子供たちが心配しないようにこっそり減らしていました。少しして、朝ごはん、夕飯も食べられなくなりました。動悸が始まったころから診断書をもらうまでの1週間に3キロ体重が落ちました。

1時間を切る睡眠時間

 食欲が無くなった後に起こったことは、睡眠がさらにとれなくなったことでした。何時に布団に入ろうとも寝ることができませんでした。動悸がするのです。何度も夜中にトイレに行き、3時ごろのトイレを最後に、布団でうとうとしだします。ハッと目が覚めるのが4時。そこからは不安と焦燥感で寝られませんでした。5時には起きて、6時前には家を出て職場に行っていました。

児童の顔が見れなくなる

 この頃になると一部の児童の顔を見るのが億劫になっていきました。他の児童の話にも対応できなくなっていました。なぜなら、保護者の方の顔がちらつくのです。一歩間違えれば長時間の電話がかかってきます。間違えなくても電話はかかってくるのです。特別な支援が必要なお子さんにも、本当に関われなくなっていきました。特別な支援が必要なお子さんには、別にプリントを作ったり、付箋を貼ったり、必要なものを別に準備したり、声掛けも人一倍してきました。最後の1日は一度も声をかけることができませんでした。どれだけがんばっても、私は無能だからです。

診断書をもらってから休職に至るまで

 ここでは、限界を迎えてから、休職に至るまでの経緯を振り返ります。

  • 逃げるように午後休をとり、心療内科へ

  • 渡された診断書に安堵と不安

  • 睡眠導入剤で久しぶりの4時間睡眠

  • 管理職から休職を伝えられる

逃げるように午後休をとり、心療内科へ

 週を明けて、体も心も状態は最悪でした。日曜日の夜に睡眠は一切とれず、動悸がし、涙が出ていました。この夜は、「死ねば楽になる。」と考えていました。それでも朝がやってきました。仕事をこなさなければならないと思い、6時前に家を出ました。職場では一切人と話さないようにしました。児童が登校し授業が始まりました。何をしていいのか、どうしたらいいのかよくわからなくなっていました。駄々をこねる児童を無視しました。いつもの対応ができなかったのです。話しかけてくれる児童に笑顔で答えられませんでした。喧嘩をする児童の話を聞くことができませんでした。いてもたってもいられなかったため、昼休みに入り、午後から休みを取りました。管理職にその旨を伝え、無言で職員室から出て、心療内科へ行きました。心療内科へ行く際、車の中で、何もできない自分が情けなくて泣いていました。

渡された診断書に安堵と不安

 心療内科は4年前に一度かかっており、初めてではありませんでした。お医者さんに現状を伝えると、「しばらく休職しましょう。診断書出しますよ。」と言われました。安堵しました。私が児童に対して望ましい対応ができる状態ではなかったからです。同時に、児童と職場の方に迷惑をかける不安がありました。

睡眠導入剤で久しぶりの4時間睡眠

 心療内科で渡された薬を服用しました。眠りにつくまで時間はかかりましたが、一度も起きることなく朝を迎えられました。久々に寝ることができたと感じました。4時間でも、当時の私にとってはありがたいことでした。朝の4時に目が覚め、6時前に家を出て、職場へ向かいました。

管理職から休職を伝えられる

 6時20分、職員室には教頭先生がいらっしゃいました。他にも一人教員がいらっしゃいました。教頭先生に話があると伝え、二人きりになりました。二人きりになると、涙が出ました。今までの経緯と休みたい旨を伝え、診断書を渡しました。教頭先生は私の話を最後まで聞き、「気づくことできなくて本当に悪いことをしてしまった。ごめんなさい。今までよくがんばったね。今日はもう帰って、昼頃にもう一度電話するね。」と言ってくれました。職員室を出る際、他の教員の方が「しっかり休んで、元気になったら、また一緒に働こう。」と声をかけてくださいました。その後帰宅し、昼頃に校長先生から「学校のことは気にしなくていいから、しっかり休んでください。」との電話をいただきました。温かい言葉をかけていただいたこと、仕事を放り投げてしまうことなど、どの先生方にも感謝の気持ちと申し訳なさでいっぱいです。こうして休職(病気休暇)に入りました。

さいごに

 これが私が休職に至るまでの経緯です。保護者の方からの電話も含めて、仕事も精神的にも上手に対処できない自分の能力の低さを認めることが辛く、もっと早く周りに助けを求めるべきだったと反省しています。なによりも、私のクラスの児童に悲しい思いをさせてしまい、無責任な行動をとってしまい申し訳ないです。同時に、組織的に長時間の電話に対応するシステムがあるといいなと思いました。


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