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尖った言葉で「心の風船」を割ってしまわぬように


2024年、元旦の夕方。
自宅でnoteを書いていた私は、揺れを感じてテレビをつけた。
 
2011年の東日本大震災以降、揺れを感じたらテレビをつけることが癖になっている。都内が揺れたということは、東北あるいは北関東あたりだろうか、と地震速報を確認したら、まさかの石川県だった。
 
それを見た時、石川県と関東地方にほぼ同時に地震があったんだと思った。なぜなら、石川県と関東地方は離れすぎているから。
 
しかし、違っていた。
石川県の地震があまりに大きかったため、関東地方にまでその影響が及んだのだ。
 
やがて各局がお正月番組を中断し、地震特別番組になった。気づけば私は正月の三が日ずっと地震に関する番組を見、ネットでその情報を追っていた。
 
倒壊した家屋、押し寄せる津波や土砂、電気やガスが使えなくなっただけでなく水も出なくなってしまい途方に暮れる人たち、そしてそれは一年で一番めでたいはずの日に起きた出来事。そして───
 
その惨状を、暖かい部屋で温かい飲み物を手に見ていた私。

 悪いことをしているわけではないけれど、なんだか自分が良くないことをしている気がして、書きかけのnoteはそれ以上書けなくなってしまった。

その日からずっと、私は地震の続報を追い続け、気づけば10日が過ぎていた。
 
被災地の状況はますます過酷さを増している。がしかし、メディアの扱いは日に日に少しづつ小さくなっている。
 
震災当日、そして翌日はどのテレビ局も特別番組を編成するほどだったが、それ以降、ニュース番組以外は通常の番組編成に戻っていた。バラエティ番組だったり音楽番組だったり、あるいはスポーツ番組だったり。
 
当然だろう。どんな惨状でも毎日毎日そのことだけをテレビで取り上げるわけにはいかないからだ。
 

連日、この世界ではさまざまな出来事が起きている。2日の航空機事故もそうだし、都内を走る電車内では何人もの人が刺された。
 
 今までだってずっとそうだったし、これからもきっと、新しい何かが起きれば世間の興味や関心は、より新しいことへ、よりインパクトが大きいほうへと向かっていく。
 
世間が関心を持つであろうことにフォーカスして番組を作り、そして流す。それがメディアだ。何かが起きれば、その出来事の「今」を捉え、関心を持つ人たちに向けて情報を流す。
 
災害が起きればその震源に、事件があればその源泉を知ろうと、メディアがその震源地、源泉地へと向かう。「いい画」そして「視聴者ウケする物語」を引き出そうと、被災地や被害者に容赦なくカメラとマイクを向ける。
 
必ずしも「正義の名のもとに」なされるわけではないメディアの在り方やその姿勢に対しての批判は少なくはない。ただ、だからといって、もしそうした報道があまりなされることなく、人々の目に触れる機会も少なかったらどうなるだろう?
 
目に触れなければ人々に広く知られることはなく、扱いが小さくなれば事態は終息しつつあるのだと錯覚する。さほどの興味がなければ、人はそのことに対して残酷なほど無関心だ。
 
人々はそのことにさしたる関心を抱くことなくすぐに忘れ去り、その結果、募金や支援物資などが集まりにくくなるのだとしたら、それは被災者にとってマイナスにしかならない。
 
もちろん、被災者の気持ちや置かれた過酷な状況を無視した報道は問答無用に断じるべきではあるが、そのバランスは非常に難しい。
 
ただ、そうしたメディアの功罪の一方で、政府や自衛隊、有志等のボランティアに対して、まるで重箱の隅をつつくようなダメ出しコメントをネットに書き込み、懸命に活動している人たちの士気をただただ下げてしまっている残念な人たちがいる。
 
どれだけ非常時の緊急対応に熟練した人や組織であっても、その時のさまざまな情勢や事情によって、出来なかったり、不足するものが出てくる。
 
必死になって一人でも多くの命を救おうとしている人たちに対して、その労をねぎらう気持ちなど微塵もなく、ダメなところばかりを探してあげつらう。

自分の優秀さや有能ぶりをアピールしているかのような、上から目線で現場のリアルな状況を何もわかっていない人たちの残念なコメントを見るたび、その心のなさに私は言葉を失う。どんな人にだって心があるはずなのに。

被災して家を失い、家族を失い、そして故郷を失いかけている人たち。その惨状を前に、劣悪な環境のなかで必死に救命救助活動をしている人たちは心を痛め、すり減らしながらも必死に頑張っている。

なのに、そうしたことを慮ることなく、弱ってしぼみかけているその「心の風船」を、心なく尖った言葉を突き刺して割ってしまう人たちがいる。

まるで小さな子供たちがシャボン玉風船を割って楽しむように、人の心の風船をいともたやすく割っていることに果たして気づいているのだろうか。

 
救助活動が完璧に出来ればもちろん言うことはないが、それぞれに異なる状況のなかで100点満点の救助というのは決して容易ではない。完璧を目指して頑張っても、なかなかうまくいかないのが災害救助であり、それが現実であることがなぜわからないのだろう。

平時ならともかく、有事の時に必要なのは、ダメ出しではなく、助け合うこと、支え合うこと。そしていくら有益なことであっても、言い方ひとつ、言葉ひとつ、伝え方ひとつで全く違う結果をもたらす
 

もし明日、首都直下型地震が起きたら?
もし明日、大きな事故や事件に巻き込まれたとしたら?

 人間誰しも、いつどうなるかなんてわからない。だからこそ、常に相手を思いやり、その心を感じ、相手に寄り添うことできっと、未来は拓ける。

多くの人の傷ついた心、しぼんでしまった心の風船が、いつかまた、たくさんの元気で大きく膨らみ、そして大空へ飛び立てますように。

その地でまた、色とりどりのたくさんの風船が飛んでいる様子を見ることが出来る、そんな日がいつかまたやってくることを願って。

そして、未来へ向かう子供たちのシャボン玉のような壊れやすい心の風船が守られますように。

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