見出し画像

あなたの記事に必ず一つ、スキがつく方法


スマホでnoteを開くたびに思う。

noteは魅力的な記事であふれている。

自分の好きなヒト、モノ、コトについて検索すれば、それらの記事がこれでもかと出てくる。好きが詰まった無料サブスクである。

そして、自分の好きなものについて書かれたnote記事を読めば読むほど、検索エンジンという名のコンシェルジュが「今こちらが人気です」「こちらは今朝入荷したばかりなんです」と、次から次へと私好みの記事を持ってきてくれる。

そんな素晴らしいおもてなしに私はいま、少し迷惑している。なぜなら───

「自分が興味のないもの」が全く出てこないからだ。

ただ、これはnoteに限ったことではない。パソコンやスマホでの検索、ネットショッピングでも、凄腕コンシェルジュたちは暗躍している。

タイパとかタムパと言われ、無駄を省く傾向にある今の世の中にあって「その人」に必要なさそうな情報がどんどん省かれていくが、私はその「省かれた、自分に必要なさそうな情報」が欲しいのだ。そう、私は───

自分が興味のないものに興味がある」のである。

「だったらカテゴリーから、自分が興味のないジャンルのものを探せばいいのでは?」

確かにそうだ。だが、そこには自分の意志がある。私が求めているのは、自分の意志に反し、あるいは意識しない、本当の偶然で出会ってしまった「興味のないこと」であって、自分の意志によって選んだ「興味のないこと」ではない。

「noteが選ぶ今日の注目記事なら、自分に興味のないことも多いのでは?」

一理ある・・・・が、すでに見つかってしまった「素敵な記事」ではなく、私は「まだ見つかっていない素敵な記事」を見たいのだ。

わかっている。私がちょっとめんどくさいことを言っているのは。そして、自分がかなりわがままなことを言っていることも自覚している。しかし、私はただのわがままプリンセスではない。

この不満をどう解消するか、わがままなりに考えてみた───

なぜnoteでは「自分が興味のないもの、かつ、まだ誰にも見つかっていないであろう記事」に出会うことが難しいのか?それは、noteが街の小さな本屋さんではないからだ。

例えるなら、noteは「Amazon」である。

Amazonは書籍、雑誌、映像、音楽など、途方もない数の品揃えだが、そのすべてがランク付けされ、noteの「注目の注目記事」やスキが多い記事のような、人気作、話題作がすぐにわかるようになっている。

ただ、逆に言えばそれは、自分で探さない限り、人気のない、話題性のない作品には出会えないということを意味する。

かたや、街の小さな本屋さんはどうだろう。

お店に入れば所狭しと本が並んでいる。そして視線を向ければそこには本があり、手を伸ばせばすぐに本を手にすることが出来る。

そこには目当ての本もあれば、そこで目にしなければ一生目にすることも気に留めることすらなかったジャンルの本やそのタイトル、著者名もある。それは逆の見方をすれば、自分にとって必要のない本、人気や話題では計れない本ばかりが並んでいるともいえる。

しかし、一見自分にとって必要ないであろう本をたまたま手にし、そしてたまたまめくったそのページにあなたの一生を左右するような言葉があるかもしれない。その出会いがきっかけとなり、そのジャンルに興味を持つかもしれない。

数秒前までは自分にとって何の意味も価値もなかったものが、ページを開いてその数秒後には自分のかけがえのない財産になっていることが人生では起きるもの。「自分にとって興味がないもの」にはそんな不思議な力がある。

私は、そんなイレギュラーな出会いの物語が好きだ。そして「自分が興味のないもの」「輝きを秘めた、ダイヤの原石」のような記事に出会いたいのである。

ただ、こんな思いとは裏腹に、最近私は「そうした記事」に出会えない、自らの致命的な欠陥に気づいてしまった。それは───

そもそも私はnoteをあまり読まない。
なぜなら書くことを最優先させているからだ。

noteを書き始めて一年半ほどになるが、最近気づいたのは、私はnote記事を読むことよりも、自分でnote記事を書くことがとても好きだということ。

「三度の飯より書くことが好き」なわけではないけれど、完成した自分の記事を読んで「自分はこんな風に思っていたんだ」と自分の何かに気づくのが好きだ。

お恥ずかしいことに、私はアラフィフにもなって自分がどんな人間なのか、きっといまだによくわかってはいない。ただ、こうしてnoteでいろいろ書くようになり、その都度自分のことを深く掘り下げていくなかで、自分が本当はどんな人間なのかを知ることが出来つつあるように思う。

常に自分の頭の中には「次は何を書こう」があり、その記事で自分が何を言いたいのか、何を伝えようとしているのかを考えることが楽しい。ただ、そんな私が「必ず読むnote記事」もある。それは───

私の記事にスキをつけてくれたnoterさんの記事だ。

少し前に、私はあるnoterさんの記事を紹介させていただいたのだが、その記事との出会いは、その記事を書かれたnoterさんが私の記事を読んでスキをつけてくれたことがきっかけだった。

私は、自分のnote記事にスキをつけてくれたnoterさんのところには必ず訪問させていただいている。

私の記事のどんなところに共感してもらえたのか、どんなところを面白がってくれたのか、スキをつけてくれたその人の記事を読みながら、そんなことを想像するのは楽しい。

そして、私の記事を読み、スキをつけてくれた方へのお礼や感謝、そして「お邪魔しました」という挨拶の意味を込めて、訪問したnoterさんの記事に「足跡」のようにスキをつけている。もちろん、記事へのリスペクトも込めて。

スキについてはさまざまな考え方があることは承知している。

純粋に記事を読み「よかった」と思ってつけるのが一般的だけれど、なかには記事を読んだことの挨拶の意味でつける人もいるし、スキのお返しを期待して、実は記事を読んでいないのに目についた記事に片っ端からスキをつける人もいる。しかし、どんなスキであれ、スキをもらった人は嬉しいだろうし、スキの数を励みにしている人も少なくない。

どんな基準でスキをつけようが、それはつける人の自由。

「スキに理由なんてない」という理由もあれば「スキに理由などいらない」という理由だってあるのだから。

ただ、誰かが自分の記事にスキをつけてくれたということは、つまりその人が「自分の記事を見つけてくれた」ということだけは間違いない。一日何千何万という投稿があるなかで、自分の記事を見つけ、そしてスキをつけてくれたことは、それだけで凄いことである。

もちろんフォロー&フォロワーさんからのスキも嬉しいに決まっているが、縁もゆかりもない人からの「突然のスキ」はひとつの「奇跡」なのだ。

見ず知らずの人に対して、その奇跡を自分で生み出し、そして贈れるというそのマインドは素敵だと思う。お金のかからないプレゼントであり、プライスレスなプレゼント。スキはそれぐらいの大きな意味と価値を持っている。

なかには、スキをもらったけれど、その相手については特に興味はないので訪問はしないし、それゆえスキをつけることもしないという人もいるけれど、それは「いい」とか「悪い」の問題ではない。

考え方は人それぞれ。それに、日々スキやフォローが多すぎて対応が出来ないという事情もあるかもしれない。

noteが素晴らしいプラットフォームであることは承知している。ただ、優秀すぎるがゆえに、その人が全く興味を持っていないであろう記事をあえて紹介するといった「遊び」や「余白」といった「スキ(隙)」がないのはなんだか寂しい。

店内を一周ぐるっと回るだけで、すぐに新しい世界に出会える。ただ、歩くだけ、ただ視線を少しだけズラすだけで、あなたが「興味のない本」をすぐに見つけ出せる。そんな街の小さな本屋さんみたいな世界に、私は強く惹かれる。

ベストセラーばかりが並び、話題作、注目作が平積みになっているnoteという大手もいいけれど、個性満載、クセ強めな小さな個人書店に私は出会いたいのだ。

数年前からタイパとかタムパとか言われ、無駄なことを省くことを最優先する人が増えてきた。それを否定するつもりはないけれど、私は無駄なことをして、その無駄から何かを学ぶ楽しさを選びたいし、自分が全く興味のないことだからこそ、時々そういうものを知りたいと思う。なぜなら、

知らないことを知るのは楽しいし面白いから。

そこで私は考えた。

どうすれば、普段自分が関心を持っていないものをnoteで見つけられるのか?それも、とびきり楽しく面白く、ワクワクする方法で。

そして、私はひとつの結論に達した。

「ぜひ、私の記事にスキをつけて欲しい」

まるで小学生が児童会役員に立候補し、その投票をお願いするかのような無邪気さで言っているが、これが私の答えである。

「それって、ただスキが欲しいだけじゃん!」

そう思われるのもごもっとも。書いている私自身、そう感じているのでいかがわしさ満載だ。しかし、

「決して損はさせません」

書けば書くほど、いかがわしさは増していく。ますますおかしなことを言っている自分が心配にはなるけれど、こういう「一見おかしな繋がり方」も面白いかもしれないと思っている自分もいる。

そして、私に「新しい世界」を見せてやろう、「自分の世界はこんな感じだよ」と記事をお見せしてくださる奇特な方がいたら、ぜひ私の記事にスキをつけて欲しい。

それによって得られるあなたの報酬は、私のたったひとつの「スキ」でしかないけれど、その出会いがこの先、もしかしたら大化けするかもしれないし、しないかもしれない。

やろうとしていることは「フォロバ100%」みたいなことだけれど、ただ、私が「普段、目にしないテーマや記事」「自分の興味では絶対に辿り着けない記事」に出会いたいがための、ちょっとシュールな提案だと思って、お許しいただければと思う。

noteの検索エンジンという「デジタル」に頼っていたら、私が興味を持っているであろうテーマや記事にしか出会えないので、私のちょっとおかしな提案に興味を抱き「そこまで言うなら協力してやろう」と、ある意味で「アナログ」な出会いを面白がってくれる方がもしいたら、迷わずスキをつけて欲しい。

袖振り合うも他生の縁」というけれど、いつかどこかで、その縁が仕事やプライベートで繋がったり、未来への希望のようなものに繋がったらいいなと思っている。

私は「偶然という必然」の物語が好きだ。

内容としてはちょっとおかしなことを言っているかもしれないけれど、「さて、いつもは自分が読まないであろう記事を読んでみよう」と思ったとき、何もできずに唖然としてしまったことがきっかけで、書くことになった今回の記事。

まさか自分がこんな「いかがわしさ満載のイレギュラーな記事」を書くことになるとは思ってもみなかったけれど、この記事によって自分に何が起こるのか、そしてあなたに何をもたらすのか、今はワクワクしている。もちろん、何も起こらないかもしれないけれど、それはそれで構わない。

まるで宝くじの当選発表を待っているような、そんな気持ちだ。

これまで、スキやフォローそしてコメントで繋がれた方々とのnoteでの交流を通じて、ネットというデジタルで繋がってもその先にあるのは人と人というアナログなのだということを改めて感じ、そしてスキやコメントによって温かい気持ちになったり、救われたり、癒されたりするということを身をもって学ばせてもらった。そして───

私の記事にスキしてくれた方の中には、とても寂しい思いをされている方や、日々を苦しい思いで過ごされている方がいた。ただ、そんな人たちに対して軽々しくコメントで「頑張りましょう」とか「きっと一人じゃないですよ」などと気休めにもならない言葉など書けないし、書くつもりもない。

どんなに頑張ろうとしたってどうしても頑張れないときはあるし、周りにどんなにたくさんの友人がいたって「自分が本当に独りぼっちだ」と感じてしまうことはある。

そんなときにかけられる言葉なんて、きっとない。

でも、「あなたの苦しみを綴ったその記事を私は読みました」「あなたのその悲しみに溢れた記事を私は知っています」、スキをお返しすることによってその想いに「寄り添う」その意思表示だけはできる。

あなたのその痛みや悲しみを知っている人がいる。ここにいる。その事実だけでも伝わってくれたらいい。

私にとって、スキはそんな意味も持っている。だから私はスキが好きだ。


今までも、そしてこれからも、私の記事にスキをつけてくれた人は

「私の記事をどうやって見つけてくれたのだろう」
「どうやって私の記事に辿り着いてくれたのだろう」

スキをつけてくれた人の記事やプロフィールを読みながら、そんなことを考えることを凄く楽しみにしている。

「あなたの記事に必ず一つ、スキがつく方法」それは私の記事に「スキ」すること。

あなたが残してくれた「スキの足跡」を目印に、私はあなたのところへ辿り着き、そしてあなたが書いた記事を読み、そして「スキの足跡」をつけて帰っていく。笠地蔵のように。

その足跡が、その後も続く「縁」になるかもしれないし、もう二度と訪れることのない場所になるかもしれないけれど、人生たまにはそんな寄り道をしてもきっとバチは当たらないだろう。

大切な時間を使ってこの記事を読んでくれたあなたが、この先もいい出会いの運と縁に恵まれますように。

スキを贈り合うことの意味。
ひとつのスキから生まれる世界。

あなたのそのスキは、無限の可能性を秘めている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?