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【掌編小説】 沼

「これ俺の好物、人参さ。美味しいんだぜ、食ってみろよ」


「いい、いらない」


「なんでだよ、せっかく作ったんだぜ。食えよ」


「いらないって」


「なんで食ってくれないんだよ。俺のに毒が入ってるとでも言うのか? 俺をそんなに信じられないのか!?」


「しつこい! そこまで言ってないでしょ……、だったら気分じゃないって言えばいい?」


「怒んなくてもいいじゃねえか……。ただ俺は今食べてほしいだけなの。人参は鮮度が命なんだ、時間をおけばいくら美味しくても味は落ちるんだぜ。今この最高の瞬間で食べてほしいんだ」


「……はぁ、ほんとそういうとこだよ。……じゃあさ、あたしがトマト食えって言ったら食べるの? あんたが父親の次に嫌ってるトマトをさ、種から植えて雨の日も台風の日も畑に行ってね、アブラムシにも食べられないように葉っぱの一枚一枚しっかり見て、『常にあなたを思って作ったの~! 絶対美味しいから食べてみて!』って持ってきたらさ……ねえどう? あんた食べる? もらってうれしい?」


「…………お前人参きらいじゃねえじゃん」


「そういうこと言ってるんじゃない! どう思うか聞いてんの! あんたが求めていないことをあたしがお願いした時、どんな気持ちになるか聞いてんの! ほんっとそういうとこ……、はぁ……お義父さんの気持ち分かるわ……」


「はぁ? なんであいつが出てくんだよ! 関係ねえだろ! 大体さ、なんでいつも俺のお願いを拒むわけ? 難しいこと言ってる? 俺。今だって人参食えばいいだけだろ? 俺だってな、お前がそう言ってきたら、嫌いなトマトだって食ってやるよ! 嫌いってことお前が知らなくてもな、嫌な顔一つせず、上がってくる胃液と一緒によ、飲み込んでやるよ! そうして笑顔で、うまい! って言ってやるわ! それぐらいやるって言ってんだ! それでもお前は食わねえって言うのか? あ? なんか言ってみろよ!」


「……本気で言ってる?」


「……っ、ああ本気だわ! やってやるよ! 今からトマトを持ってこられても腹減ってるガキみたいにかじりついてやるよ! いいか忘れるなよ、これはお前の為だからな。お前の為を思ってやってるんだからな」


「分かった、食べるわ、人参」


「それでいんだ、それで。……ほい…………どうだ? うまいだろ?」


「うん、おいしい」


「そりゃあそうだろ。俺の愛情がこもってるからな」








「えっ……?」


「ここにサインをお願いします」



「……は? ……なんなんだよ……これは……」


「初めて見られたのですか? これが婚姻届です。だからここにサインを——」


「知ってるよ! 結婚届は見たこと……なんであいつの名前が……」


「私、清隆さんと結婚します。だから証人のサインをお願いします」



「……な、なんでだよ! 意味わかんねえよ! 付き合ってたの俺達だろ? なんで結婚、しかもよりによって……。…………まさか……お前、あいつになんか脅されてるんじゃないか……?
……ああそうだ、きっとそうだ! あいつは最悪なんだ……そういう男だ……。な、なあ……お前騙されてるんだ、かわいそうに……。大丈夫、俺がいるから、俺がお前を不幸から救ってあげるから、だから……」


「いいえ、騙されてなんかいません。これは私の意志です。私の意志で清隆さん——あなたのお父様と結婚するのです」


「…………どうしたんだ……? お前らしくないぞ……? なんだよ、その喋り方……、そんな喋り方似合わねえよ……いつもの喋り方はどうしたんだ? ……ふ、服だって、なんか雲みたいにふわふわしてて…………。に、似合ってるけどよ、いつものBerryBOYのライブTシャツとかよ、あのお気に入りのドクロのTシャツとかよ……なんであれじゃねえんだよ…………。や、やっぱりお前なんかおかしいぞ……? …………ねつ……そうだ、熱があるんじゃないか? ほら……こうやって——。………………なんで払うんだ……? 俺はお前を心配してるんだぞ……あいつにそそのかされて道を踏み外さないように教えてやってんだぞ……! なんで言う事聞かねえんだよ! こんなに思ってるのに! 俺ほどお前を思うやつはいねえよ! あいつを見てみろ! 結局母親に逃げられて一人じゃねえか! お前もいずれそうなるに決まってる! 仮にけっ——、……い、一緒になったってどうせ捨てられるに決まってる。そんなのお前だって嫌だろ? …………な、なあ……俺はお前を心配してるんだ。俺と一緒にいたほうがお前も幸せになれるんだ……こんなことはよそうぜ」


「心配? そうですね。あなたはいつも心配しています。気を配っています。よほど大事なんだろうなと私も見ていて感じています。本当に素晴らしいと思います。それはあなたにしかない、あなたの立派な才能なんでしょう。いくら私が反発しようとも捻じ曲げなかったその一種の愛情は、誰しも拍手をすることでしょう。あなたさっき私が不幸とおっしゃいましたが、それはどうでしょうか。私は今ずいぶんと開放的な気持ちでいっぱいですよ。翼が生え天高く舞い上がっている気持ちです。あなたの言葉をお借りするなら……その広大な空を優雅にあるがままに漂う、まさに雲になった気分です。漂うっていい言葉ですね。私の好きな言葉にしましょうか。でもただ私はまだ雲にはなりきれてないのです。雲というのは水が蒸発して気体になり、上空で冷やされることでできます。それで言うと私はまだ水なのです。雲になるにはまだ足かせがあるのです。それがこれなのです。私は雲になりたい。自由で形もなく、時折山にぶつかりながらも乗り越えていく、そんな雲に。地上にいたら私は水辺のところにしかいれません。しかも私がいるそれは一見すると肥沃で、刺激的で、潜ったままであれば様々な快楽とともにある魅力的なものでした。しかし不幸なことに私は疑ってしまったのです。そして興味を持ってしまったのです。まさにマーメイドがそうであったように、外の世界にでてしまったのです。私は決して能動的ではありませんでした。こうして水面に顔を出すきっかけが生まれたのは、一種事故と言ってもいいでしょう。でしたが後悔はしていません。むしろ感謝しているくらいです。結果、私は気づいてしまいました。私が長いこと潜っていたそこは……華やかで快適な海だと思っていたそこは、非常に濁って、臭くて、人間の生産活動によってできた偉大なる犠牲をかき混ぜたような沼だったのです。最初はもちろん分かりませんでした。この環境に慣れていた私の痛覚や嗅覚、視覚に至るあらゆる感覚がこの沼に適応しきっていたためです。今思えばそれはこの沼の効能、
"麻痺"が原因だったようでした。そんな中でも、水面に上がった時、あの空だけは、目を超え、脳を超え、私の心に深く突き刺さってきたのです。沼の中からも水面越しの空は見えているはずでした。しかし顔を出して初めて、沼のなんという視界の悪さに気付かされたのです。
……あなたは空を見たことありますか? 空はとてもきれいなのです。青一色だけだと思ったら大間違いです。絶えず色を変え、青とは真逆に見える橙色さえも帯びるのです。空には色なんてないのかもしれません。そんな空を見た時私は——。
……もちろん罪悪感はありました。だからこれきりにしようと、この一回だけと思い、その時だけはこの濁った眼に焼き付けようとしっかり見ました。そのつもりでした。でも一度でも、息が吸い込まれそうな……、油に欲にまみれ黒や土色がまだらになった私すらも、溶かし混ぜてくれそうなあの果ての無い空を見てしまうと、私の住む沼がとてもちっぽけで、浅いものだと分かりました。
……そうなんです。せいぜい三メートルあるかないか……その程度のものだったのです。私はことあるごとに空を見に行きました。最初は不意に見えたときに思い出す程度、だんだんと偶然を盾にし月に数回、週に数回、それが毎日となり——。
…………私の場合はもともと外に興味はありませんでした。むしろ外という概念すらもなく盲目的でした。口を開け、沼を泳ぎ——。……いえ、泳いですらいなかったかもしれません。ツバメの子みたく、その場で口を開け食料が入ってくるまで待っている、そんな状態だったのですから……。今思えば"怠惰"という効能もこの沼にはあったのかもしれません。自然にまかせて生きているので興味すらわきません。唯一私を動かすのは、その状態をもってしても揺れ動かされる、ささやかな感情でした。……あなたが悪いというわけではありません。かといって私が大悪党かと言われると納得できません。この沼のせいでも、あなたから見たら私を誘惑した空のせいにも思うかもしれませんが、決してそうではありません。ただすべてが少しずれたのです。線路の上に米粒大の石が置いてあった、そんな些細なものだと思ってください。そのような取るに足りないことが積り積もったために、年月をかけて線路と車輪の接触部が十度、二十度とずれていった、ただそれだけのものなのです。そしてそれは決して戻らない。この列車は人生と同じように一方向にしか進まないのですから……。そしていつかこのずれが一周するときが来ます。元に戻ったように見えますがこれは決定的な亀裂となり裏切り行為なのです。周回遅れの人に一緒に走ると伝え先にゴールするような残酷なものなのです。でもこれは誰にでも起こります。生きるために大気を汚し、動植物の命をいただく必要があるくらいの仕方ないことなのです……。私は広く遠くへ足を運びたい。あの透き通った空の中を思う存分飛んでみたい。……でも私の体や手足には長いこと沼にいたために、あらゆる業が絡まり、空を憧れる私を捉えて離してくださらないのです。あなたはそんな苦しんでいる私に大きな翼を授けるのです。この沼の中でも見つけられるような輝かしく美しい翼を……。したらば私はあなたに見つかるようにこの沼の上を通過点にします。そしてあなたが手を伸ばし私を一目見ようと水面に上がり、あの空を見ることを私は望みます。これが私のできるあなたへの唯一の恩義です。あなたのアイデンティティであるその素晴らしくも恐ろしいほどの愛情で私を救ってください。どうか私のために……。これは私からの最大のお願いなのです」




「……………………いみわかんねえよ…………
……なにいってんだよ……ほんとうに……。
なあ……おれのこと…………あいしてなかったのか……?」


「……愛しています」


「嘘つけ!! お前は俺から逃げたいんだろ!? そうなんだろ!? 逃さねえよ…………このまま三十秒でもすればお前は死ぬし、俺もその後死んでやるよ……! どうだ! 逃げられないだろ!! お前の行きたがってた空にはもういけねえんだよ!」








(あ・り・が・と・う)








「……は……? どういうことだよ……分からねえよ、喋れよ! ……」



「っけほっげほっ……はぁはぁ…………っはぁ……はぁ…………なんでそのまま……っ掴んでくださらなかったのですか? ……はぁ……あのまま続けてくだされば、私は高く舞いあがれたのに……。さあ続きをやってください。早く先程のように、血をたぎらせて血管を浮かべた両手で私の首を掴んでください。私の気道を塞ぐかそのまま首を折ればいいだけなのです。簡単でしょう? それか台所から包丁を持ってきて私の胸に突き刺しますか? 大丈夫です。いくら私の血が赤くともあなたに頂いた翼は汚れませんし、沼の中ではその刃物も見つかりにくいことでしょう。もちろんサインをしてくださっても良いのです。あなたが何もせずこの場から立ち去ってしまうのが一番残念ですが、それでも私は翼を得ることができます。そうです。これからのあなたの行動はすべて私に翼を授けることなのです。それをどのように行うのか、あなたが選べるのはそこなのです。未来はもう決まっているのです。さあ、私のために、強いては自分のために選んでください」


「…………てけ……でてけ……出ていけ! お前なんてもう顔も見たくない……人生で最悪な女だった! なんでこんな女と付き合ったんだ……! 最悪だ! 最悪だ最悪だ最悪だ! 出てけ! いますぐ出てけ! そして二度と俺の前に現れるな!」




「…………それでいいんですね……?」

「いいさ! これが俺の答えだ! 何度でも言ってやる! お前は俺の中で最悪な女だ! 付き合って後悔した! 二度と顔も見たくない! さっさと出てけ!」




「……わかりました。……ありがとうございます。では、こちらは回収させていただきます。
…………最後に…………本当に、言い残すことはありませんね……?」

「ああ! もうねえ! さっさと消えちまえ!」











「………………ほんとうに——」

「しつけえんだよ! さっさといなくなってくれ! お前がいるといつまでも部屋から出れねえんだ! さっさと出ていってくれ!!」







「…………分かりました。…………私に翼をくださって……ありがとう、ございます……。……し、つれいします……」








バタンッ



トン トン トン トン……












ビリビリッ

















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