200分de名著
古今東西の名著の全てに共通するものってなんだろう。
そう考えながらEテレの100分de名著を何度も見返している。
おとといの大雨の日は、来店客がほとんど無かったので、店番をしながらオンデマンドでずっと見ていた。
最近、久しぶりに本を読み続けていて疲れたので、気軽に見られる回を、と柳田國男の「遠野物語」を。
遠野は、花巻と海の町宮古を結ぶ街道の重要な中継地点。
でありながら、その途中は奥深い山の中だ。
柳田國男の時代には、当時の現代、江戸時代、弥生文化、縄文文化それぞれが、遠野の街の中心から山に向かって息づいていて、その特性の中で生まれた不思議な話を読み解く。
この話の中に、魂という言葉が出てきた。
第3回目は、それについてだと。
最近私は魂という言葉について、あれやこれや考えている。
「遠野物語の解説でも出てきたか」と、次の回が気になったが、さすがに時間的に店に出なければ。
その夜はサイゼリアに行く日で、思い切ってイヤホンを持っていった。
サイゼリアのWi-Fiで、動画を見ながら飲んで食べる、という若者みたいなことをした。
もちろん動画は100分de名著。
伊集院光さんのコメントが面白かった。
きっと彼の大きな大きな心の中には、遠野が一つぽっかり入るくらいの、様々な記憶やファンタジーが詰まっているのだろう。
見終わると、魂といえばどうしても気になる回が。
「苦海浄土」だ。水俣病に苦しむ人たちのことを綴った、地元の詩人石牟礼道子さんの本。
家に帰り、酔った勢いで、深夜に100分全部見てしまった。
静かな部屋でイヤホンで聞くと、今まで聞こえなかった、伊集院光さんや解説の若松英輔さんの言葉の微妙なトーン、震えまで聞こえてくる。
最初の言葉から、心を掴まれて目頭が熱くなる。
水俣病は、水銀中毒によってどんどん身体の自由が効かなくなる病気だ。
娘の看病をしている人が、石牟礼道子さんに言う。
「ものをいいきらんばってん、人一倍、魂の深か子でござす」。
以前見た時にここでの、魂と言う言葉にずんと来た。もう一度見たかった。
経済第一主義の現在、人間の価値は、どれくらい金を稼げるか、どれくらい内申点がつくか、一つ間違えれば、学校というのは一人ひとりの首に、商品としてどれくらい役に立つのか数字をぶら下げることのように感じる時もある。
そんな時に出会った「魂の深き」という表現。
全く違う価値観だ。
どんな人にも、魂としか言いようのないものはあり、老若男女、貧富の差もマイノリティーかどうかも関係ない。数値化できない。すべての人に等しくあるものだ。
薄情で冷淡な人だからといって、魂がないわけではない。無理やり抑え込んでいるか、豊かにそれに触れられる機会を人生の中で失って生きてきただけかもしれない。
現代社会を上手に生きるには、魂に蓋をしたほうが面倒くさくないかもしれない。
でも、現代社会が息苦しい人は、少しでも、自分の中の魂としか言いようのないものと対話をする時間を作るのも1つの方法。
大自然というのは、眼の前に広がるものではなく、一人ひとりの魂の向こうに広がっているものじゃないか、と一昨日、ふと思った。
話を最初に戻します。
古今東西の名著に共通するもの。
それは、読む人々の魂に刺さる言葉で書かれているのではないかと。それが時代を超えて、時に人種を超えて、読み継がれていく。
魂に刺さるものは名著だけでない。
芸術もそうだし、ささやかな料理でもそうだ。
忙しいさなか、例えほんだしを使っていたも、その人を思っ作ってくれたお味噌汁なら、心の奥底に刺さる。
そんな仮説を今持っている。
また、思いついたら何か書きます。
1日で200分も、見てしまった。