無題

出雲信仰の縁って、どこまでの縁を言うのかしら

前回書いたように、私は2018年9月28日、島根県出雲市にある出雲大社に行っていた。

出雲大社の祭神に対する信仰は出雲信仰と呼ばれていて、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』では次のように説明されている。

島根県の東部にある出雲大社の祭神オオクニヌシノミコト (大国主命) に対する信仰。オオクニヌシノミコトは開拓、五穀の農耕守護神であるが、一般庶民の間では男女の良縁を取持つ縁結びの神として親しまれている。

このような神様が祭られている神社の絵馬は、男女の縁結びのことを祈願したものばかりだと、私はてっきり思っていた。

私は興味津々で色々な絵馬を見ていった。「イケメンで身長180センチ以上の彼氏ができますように」とか書いてある絵馬があって、私は「この人贅沢だなw」と思ったりしていた。

私は自分の性別に関してやや複雑な事情があり、自分はこのようなことを望んではいけない、そんな資格などないと思っているので、なんだか素直にこのようなことを書けるのをうらやましく思ったりした。

ずっと絵馬を見ていくと、大学合格祈願の絵馬などもたくさんかかっていて、ちょっとびっくりした。えっ、これはちょっと縁結びとは違うんじゃない、と意外に感じたからだ。

でも実は、調べてみてわかったんだけど、出雲大社は学問の神様・菅原道真も祭っているらしい。でもそのとき思ったのは、あるサイトにも書いてあったんだけど、男女の縁だけでなく、志望校との縁も取り持っていただけるのか、ということだった。

辞書を引けば分かるように「縁」という漢字を見てふつう私たちが思い浮かべるのは、人と人との巡り合わせである。しかも、この字を「えにし」と読んだ場合、「ゆかり。えん。特に、異性とのえん」と『明鏡国語辞典』(第二版)にあるように、恋愛関係の巡り合わせを指すことが典型的(プロトタイプ的)であるようだ。確かにこれは私の感じている語感と一致する。

でも、広い意味での「運命として定まっているめぐりあわせ」には、人と人とのものだけでなく、「金には縁がない」と言うときのような物事とのつながりも含まれる。

このように、ある概念(下位概念)を、それよりも広い概念(上位概念)を表すのに使う比喩のことを、シネクドキ(提喩)と言う。「喫茶店でお茶でも飲もう」と言ったときに、「お茶」に限らず「コーヒー」「ココア」「紅茶」なども含めた「飲み物全般」を表すのと同じだ。

つまり、「縁結び」と言ったときに、「恋愛関係の人と人との縁」に限らず、「人と人と縁」「人と志望校の縁」なども含めた「運命として定まっているめぐりあわせ」全般を指すのだと考えたのだ。

まぁ、こんなことを考えながら、出雲大社の参道を歩いていた私は、ある種独特の空気感を感じていた。そこが神様の通り道と呼ばれるのは、やはり何らかのパワースポット的なものがあるのだなと実感したのだった。

出雲大社... 私が何かにふっきれたり、私の気持ちに変化があれば、またぜひ行ってみたいな。山陰に旅行すると、なんだか癒やされるのはなぜなんだろう。

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