自分を教育するのは誰か

私がしたいことは何なのかシリーズ3つ目。
この辺りから今の自分にかなり近づいてくると思われる。

近づいてくると言うよりも、
よりはっきりしてくるというべきかもしれない。
私はいつも変わらない自分を観察しているような感覚がある。


〇自分に素直であること

私は割と自分に素直だと思う。

他の人と調和することを望まないとは言わないが、
自分の感覚や感情にそぐわないことはあまり従えない

ピアノを弾くのもそうだし、将棋の指す手もそう。
お絵描きするのも、文章を書くのも。

ただ、この認識の背景には、元々とある他の認識がある。


私は教育実習にいってほぼ初めて
個人的な関係性ではない相手にものを教えることになった。
家庭教師や塾講師のバイトはしたことがないので。

互いに知らない相手と向かい合って、
いきなり授業をする・受ける関係性になる。

初対面の相手となれば何となく気を遣ったり遠慮がちになったり
畏まってしまいそうな感じもする。

私は知らない人と関係を築いていくことにあまり能動的ではなかったので、
実習でも自分から何か積極的なアプローチをすると言うよりは、
静かに傍で見守りながら過ごしていた

授業をするまでの数日間で、
まともにしゃべったことがある子は数名だっただろう。


一方、相手のほうは割とわんぱくというかたくましいと言うか、
まあ外側から見ると少し問題もあったかもしれない。

先生を怒らせてもしていたし、
実習中に臨時の学級会のようなものもあったような記憶がある。

先生!なんて呼んでくる子のほうが少なく、
最初の授業でニックネームをつけられて、
些細なことでも割と自己主張と言うか、わがままと言うか、
そう言ったことをする面もある。

まあ私は先生と呼ばれたいとは特に思っていなかったことや
自分の思ったように子どもに動いてほしいというような気持ちもなかった
のでそれら点においてはむしろやりやすかったくらいだ。

あまり書き過ぎないようにこの程度にするが、
そんな様子の彼らを見て安心していた自分がいた。

確かに問題が起こるかもしれないし、
言うことを聞かないと怒られもするだろう。

しかし、私の正直な彼らに対する印象は、非常に素直だなぁと言うくらい。
ただしそれは素直と言っても、
「ちゃんと言うことを聞くいい子だなぁ」ではない。
「自分に素直である」と言う意味だ。


〇私が理想として描ける授業

私がそのいいなぁと思っていた姿を真正面から肯定して、
そのまま授業や生活の中で価値あるものだとしていくことは
ある意味私の理想として描けるようになった。

なので、授業でも彼らの素直に出てくる考えや意見をそのまま活かして
授業の終わりまでたどり着くことが授業づくりのベースとなっていたし、
授業をする前から、受けたくない、面白くない、と思われそうだと
自分が思うような授業はしなくていいと考えるようになった。

実際にそれが達成できていたかは確かめようもないが、
必要だから、教科書や学習指導要領に書いてあるから、ということは
授業をする理由にはしないし、ならない。

世間の見方はそうだとしても、
その授業が面白くないのならしなくていいし、受けなくていい
と思っていたと言ってもいい。

まあこのことは先生になる人の多くが考えることのようにも思うが、
私は幸か不幸か、ウケを取れるタイプのキャラではなかった。

面白い授業をと思って例えば、
お笑いのネタをアレンジするとか、
面白いギャグや冗談が言うとか、
私生活の中でネタが用意するとか、
知り合いの話を使ってクラスを盛り上げるとか、
そういうこととは無縁だった。

色々な捉え方があるかもしれないが、
率直に今の自分から言えば、
変な勘違いをする余地がなくてよかったと言っていいだろう。

だから、私にとって授業の面白さと言うのは、
授業そのものについての内容が面白い、楽しい、わかりやすい、
という方向性しかそもそもなかった。

他の方向性などイメージすることすらなかった。

まあそういうことができたほうが望ましい場合もあるのだろうが、
それは私の授業について思うところにおいて、主眼ではない


〇自分を肯定される場所

私のこの考えに更に拍車をかけてしまったのは研究室だ。
私からしたらありがたいことだが。

少し独特の文化がある研究室で、
ざっくりと言えば「研究テーマも方法も好きにしていいよ」と。

この好きにしていいよ、は結構難しいかもしれない。
ただ、私にはうまくはまったと思われる。

自分が知りたいことを自分の考えた方法で、
自分の知っていきたいように向き合う
ことができる。

私は本で調べたり人に聞いたりすることをあまりせず
何でもかんでも自分で思いついたことを試すのが好きなので、
とにかく手探りでやりたいことをやりまくった。

もちろん、研究室にいるので先生やメンバーと話をする中で
結果的にいろいろな考え方や捉え方や発想を、
アドバイスのように受け取っている。

しかし、最終的にどう考えて何をしていくかは自分の手に委ねられている

自分がどんなことをどんな風に知っていくのか。
自分が何に興味を持ちどうなっていくのか。
かなり自然な姿で向き合うことができたと思う。

無理がなく、不自然でなく、違和感もなく、
ただ自分と自分の知りたいことに没頭する時間
を何年も過ごした。

それまでの先輩も、私より後に入った後輩も、
基本的にそうやって過ごしていく。
私からすれば、自分に素直であることを
そのまま研究や人生の糧として活かしていく
ための時間だった
と言っていいだろう。

同時に、研究室の先生は大学や他所での出張授業でも
それに近いスタイルを取る人なので、
まあ近くで見ていてそれほど大きな違和感は持たずに済んだし、
そのような授業づくり、活動づくりについて見識を深めることもできた


〇自分を解き放つことで、自分を知る

「好きにしていい」は難しいかもしれない、と上述したのは、
自分の好きにしていいと言っても、
その好きにしていいは自分の前向きさや誠実さなどに大きく左右される
もしそれに見合った自分でいられないなら、何にもならないかもしれない。

私自身はあまり気にしたことはなかったが、
それも含んでの教育ともいえるだろう。

そして、それは言い換えれば私のしたいことでもある

自分の思うように素直に振る舞えること、
物事に対して前向きでいられること、
そしてそれを価値あるものとしていくこと。

確かに学校や授業には先生がいるが、
例えそこに誰がいてどのように過ごそうとも
自分自身を本当の意味で教育してくれるべきは自分だろうと考える。

他の人の存在があるほうが良いことは色々とあるだろうが、
必ずしもそれが望めるとは限らない。
誰かがいるから、あるいは誰かがいないと自分を教育できないのであれば、
自分に何かがあった時、自分が何かしたいと思った時、
その人はどうなるのだろうか?

最も自分に近く、最も自分と長く、最も自分と向き合うであろう相手。
私自身が最も意識している存在でもある。

自分のことが知りたい。
誰でもなく、自分の手によって。

あるいはより一般的に言うならば、
より自分をよくしていくために最も頼らざるを得ないのは、
自分自身
ではないだろうか?


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