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自分と他人は違う人という認識

質的研究法の研修の前半に行ったお遊びの
活動づくり(≒授業づくり)の記事を書こうと思っていたのだが、
そのベースとなる認識の話を長くなるので別で書いておくことにした、

何をどこまで書くかに迷いながら
気がつくと時間がかなり経ってしまった。


この記事のタイトル、極々当たり前のことだと言われるかもしれない。
しかし、我々は本当にそれが当たり前と思えるほど
そのことに気づいているだろうか?

知っている、理解している、わかっている、気づいている、などなど、
これらの言葉は同じではないが、
近い意味を示している言葉だと感じるだろう。

ただ、敢えて今ここであてがう言葉として、気づいている、を選びたい。


〇自分と他人は違う、とはどんなイメージ?

自分と他人は違うと気づいているとした時、
それはどんなイメージだろうか?

心理テストでも何でもないので写真を見ながら
のんびり考えてみてほしい。
その写真から、イメージから自分が語れる違いは何だろうか?
そしてどの写真が自分の思いに近いイメージだろうか?
(なんか学校で授業できそうな気がしてきた。)

写真だけだとそのまま素通りしてしまう人もいる気がするので、
少しだけ文を書き添えておくが、私の独り言だと思ってもらっていい。

煩わしく感じさせてしまったら申し訳ない。

そう思ってほしいとも、それが全てだとも思っていないので。

1枚目

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誰にもできること、できないことがある。
適材適所なイメージだろうか?


2枚目

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それぞれに違った色がある。
個性の違いを色で表すような感覚だろうか?


3枚目

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様々な大きさ、形、色、それぞれみんなが違う。
違いにはいくつかの要素が複合しているということだろうか?


4枚目

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それぞれにはいろんな表情があって、いろんな感情がある。
同じ瞬間に誰もが同じことは思っていないのかもしれない。


5枚目

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みんな違う色つやや形、大きさで、
似たものはあっても同じものはなさそうにも思える。


6枚目

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みんなもともと違っていて、
将来は違う花が開くということだろうか?


他にも、まだ何枚か写真を集めたので
そろそろ文は抜きに掲載だけしておく。

7枚目

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8枚目

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9枚目

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10枚目

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11枚目

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〇認識の隙間

自分に合うものがあった人もなかった人もいたかと思う。

少なくとも写真に合わせてこんなことが言えそう
こんなこと考えてる人がいそうなんてことが
いくらか頭の中に浮かんだのではないだろうか。

あるいは、全て同じに見えた人もいるかもしれない。

ちなみに写真を集めた私自身、しっくりときたものはなかった


自分のもつ何らかのイメージを説明できるかもしれない。
しかし、誰もが同じイメージをもっているわけではないし、
同じ写真でも違うことを述べる人もいるだろう。

自分の認識をもつことは同時に、
自分とは違う認識をもつ人に対して違和感をもつことにもつながる。

そんな時、相手の認識やその違和感をどう感じているだろうか。

世間話程度に、あるいは興味深く好意的に
その認識を語り、また聞き入れることができるのなら構わないのだが、
なかなかそうはならないこともあるだろう。

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認識の違いは考え方や行動の違いとしてよく現れ
そういったことを意識するタイミングはいろいろあると思うが、
それが“気に入らない”場合があるからだ。

その“気に入らない”感覚を自分の中で消化できない者は、
おそらく根本的に自分と他人は違うことに気づいていない


それは最初の写真の話に限らず、
たくさんのことが例に挙がるだろう。

いつだか書いたなぜ勉強するのかみたいなこともそうであろうし、
どんなことをされたらうれしいかいやか
勉強や仕事に対する取り組み方はどうか、
趣味への熱の入れ方や友人関係の築き方などなど、
日常生活から学校や仕事に至るまでいくらでもあるだろう。

そういった中でどんなことが自然で、どんなことが当たり前で
どんなことが気に入らなくて、どんなことが許されないのか。

自然で当たり前の振る舞いは
いかにも見過ごされやすく、あまり意識に上らない。
しかし、気に入らないことや許せないことはすぐ意識に上ってくる

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イライラしたり喧嘩したり、
相手を説き伏せようとしたり、
注意せずにはいられなかったり、
眠れないほど悩まされたり、と
その時の反応や行動は様々だろうが、
「なんでそんなことするの?」というようなフレーズとともに、
相手に対する怒りや落胆や諦めなどが生じるだろう。

不意に、自分の認識と相手の認識の隙間が見え始める。

実際にどのくらいの隙間があるかは場合によるだろうが、
傍から見ていればほんの小さな出来事をきっかけ
それまで少なくとも表面上ではうまくいっていた人間関係が
瞬く間に破綻していくのが見えるような感覚になることも多い。

認識の隙間による不快を、
対象を遠ざけることによって解決することは
ある意味では簡単な手段である。

相手を悪と断じることで、自分を肯定し、守っている。
しかし、そのすれ違いに喜びや未来はない


〇すれ違いの先を信じる

誰に何をされても基本的には驚かない私だが、
予想外の行動や発言をされていることはよくある。
そんな時、いつもこう思う。

相手の言葉が、考え方が、行動が理解できない。
これは当たり前である。
なぜなら「自分と他人は違う」からだ。

他人は自分の期待したように動いてなどくれないし、
自分は他人の思っているように考えて生きていない

同じことを考えて同じように生きているわけではない。
これはこうするべきだ、こう考えるのが普通だ、と
自分が思っていることは、本当にただ自分が思っていることでしかない

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だからこそ、自分と他人の考えや行動を紡ぎ合わせる価値があるし、
それができた感触が得られることは興味深く、面白い
自分と他人の間に当たり前であることなど基本的にない。

ルールや慣習や常識という枠組みも存在するが、
それらもいつでも誰でも守ってくれる、
あるいは守れるものではない。

むしろそうでなければそういった枠組みの必要がない。
言葉にする意味がないからだ。

理由は様々だが、世で使われる言葉は
それを示す必要があるべくしてつくられているものが
おそらくほとんど、または全てであろう。

言う必要のない言葉は生まれてこないし残っていかない。

こう考えると、世にあるたくさんの言葉は
人々のたくさんのすれ違いを埋めるために
つくられてきたものでもあるのだろう。

いつ誰とでもそうであれとは思わないが、
我々が生きている中で感じる様々なすれ違いや違和感は、
我々の生活を不快にし、未来を奪うものでしかないのだろうか。

自分と誰かの認識の違いは、何も生まないのだろうか。

自分と他人は違うということは、そんなに不快なことばかりだろうか。

自分と他人は違うことが、世の中が多様であることが、
自分には理解できないものをもった人の存在が、
自分の喜びとなると感じたことはあるだろうか。

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