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東洋医学の本質は分けること

 なぜ、東洋医学を勉強するかというと体質や身体について知りたいからというのが多いのではないでしょうか。
 私自身も東洋医学を勉強し始めたときに、身体の状態を早く理解できるようになりたいという気持ちが強かったので、どうやったら答えを知って理解できるのか考え続けていました。

 東洋医学に詳しいという人、治療が得意な人がいれば話を聞いてみたり、本を読んでみたり、実際に受けて体験してみたりもしましたが、どれも答えと遠いような気がして疑問が続きました

 人、本などでも、「身体は〇〇である」、「病気の本質は〇〇」、「〇〇の人ばかり」ということが多く、人の身体をしっかりと見ているというよりも、その人の見方によって作られた「答え」であり、客観的な見方とは少し違いがあるのではないでしょうか。

 鍼灸でも脈診だと「〇〇虚」が多いという話を聞いたり、中医学を利用している人でも「病は加齢から」「病はストレスから」という自分なりの切り口での答えの場合もあり、本質的には、身体を東洋医学で理解するというよりも、東洋医学を勉強した結果、自分なりの解釈での答えを作っているように感じます。

 答えは自分で作るのだと自分なりに理解し、自分なりのやり方でいいのではないかという考え方も生まれ、自分は自分というように自立できたのはいいところですが、東洋医学を知れば知るほど、答えを一つにしぼるのは東洋医学から遠ざかっていき、全体で見るのではなく、自分の答えという部分から全体を理解するということになっているのではないかと疑問も生じました。

 東洋医学を勉強したという人は、鍼灸に限らず、漢方もやっている方、薬膳をやっている方がいると思いますが、自分の理解に対して疑念を持つことってどれぐらいあるのでしょうか?

 私は、自分の意見が完璧ではないし、他方が必ず存在するという視点を持つことが多いので、いろいろな人が話す「答えがある」東洋医学に疑問が生じていましたし、自分が到達した物に対しても疑問が沸き上がりました。

 そこで、今回は、「東洋医学の本質は分ける」という視点でまとめてみたいと思います。

1.なぜ「気」という言葉が必要だったのか?

 東洋医学の成り立ちは「いつ」「誰が」作ったのかはっきりしているものではないのであくまで推察していくしかないので、どうやって成り立ってきたのか考えていました。
 東洋医学は「気」が根底の医学なので、なぜ、「気」という言葉が生まれたのでしょうか。
 古代では人が生活していく、物事が存在する理由、移り変わりというのは、非常に不思議なものですが、「何によって成り立っているのか?」というのは全く分からない状態だったはずです。
 人が生まれ、死ぬという単純な現象でも、人によって亡くなってしまうのが早いことや、治らないという現象を目の前にして、必要な言葉がなかったので、「生命、力、動き」が「人や自然」には内包されているので、こういった分からない力を「気」と表現したのではないでしょうか。
 「気」という言葉があれば、自然は「気」によって成り立つと考えることができますし、宇宙や自然の「気」によって人の「気」が影響を受けて生活していると考えていくことができます。

2.「気」という言葉の限界

 「気」という言葉ができたことで、全ての物事の根底には「気」があり、物事の根底、人で言えば、生命の根底には「気」が関わるので、「気」の低下が生命力の低下だと考えることができます。
 言葉がなかったところに対して「気」という言葉を作り、言葉ができたことで、説明をすることができる状況になっていますが、理解はできても使えない状況になってしまっています。
 使えないというのはどういうことかと言うと、「気」にアプローチすれば治せるはずですが、どうやってアプローチするのでしょうか?

 いろいろな東洋医学の話を聞いて感じたのは、「~が原因である」という定義をしてしまうということは、ここで感じた疑問を解消できないです。

 よく分からないと思うので、例えば、全ての人の病の原因は、「身体の持っている力の低下」という定義をしたのであれば、実はどうやって治療をするのか、どうやって生活習慣を整えるのかという具体的な文言が連携できなくなります。

 「身体の持っている力」というのが本質的には正しいと感じはしますが、では、「身体の持っている力」というのは、「身体のどこにあって」「どうやってアプローチするもの」なのでしょうか?

 1点を決めてしまったが故に、1点を出せないと訳が分からない状況になってしまっているので、どうしても、一般的に言われることをこの理論に当てはめたりして、理論的には、「食事・運動・休養」に注意するというフォーカスが弱い視点になってしまいやすいです。

 こういった1点の考え方は、実は金元時代に成り立っていて、東洋医学では重要な歴史であり、大切な視点を与えてくれていますが、その考え方が全てではないと否定されているので、やはり歴史的にも、1点の視点は東洋医学ではあまりよくない状況だというのがわかります。

3.陰陽論が重要

 「気」という用語で、「生命」などに対応する用語にはなりましたが、あくまで用語になっただけであり、実用性がない状況になってしまっています。

 「気」という用語が実用性を帯びてきたのは、「陰陽論」が合わさることで重要性が出てきたと言えます。なぜ、「陰陽論」という「分ける」ことが重要かといえば、気を2つに分けることが出来るのが非常に重要なのです。
 人の生命は「気」であるという視点だけではなく、「陰気」「陽気」にしていくことで、「陰気」は「内、下」という表現にすることができます。「陽気」も同様に「外、上」という表現にすることができます。

  さて、よく分からなくなったかもしれませんが、
「病の原因は上の中の気の異常であり、治療は上で中に対処すればいい」
という文章を成り立たせることが可能になります。
 「上の中」というのは、「上」が「陽」であり、「中」が「陰」になるので、「陰陽論」で言えば「陽中陰」に病があると場所を特定することができ、身体の中を開いた構造と考え方を合わせていくことも可能になります。
 「場所」を分けることができるということは、診察でもしっかりと内容を分けることが重要で、治療でも分けることが重要になります。

 もっと大切なところは、治療者が患者の状態を診て分けて、治療を使いこなさないといけなくなります。
 陰陽論は「可分」という性質があり、理論的には無限に分けて生き続けることができますが、分け続けるというのは理解をしっかりとしていないといけないことにもなります。
 例えば、道を進んでいったとして、「右」か「左」に分かれるのを続けた場合、どれぐらいの曲がり角を正確に覚え続けていけるでしょうか?何度か繰り返せば覚えられますが、陰陽論は分けることは無限にできるので、無限に分けるパターンを覚え続けられるでしょうか?

 現実的には、全部覚えることは、不可能に近いものなので、東洋医学の陰陽論でも2分類のさらに2分類の4つ程度が多くなっています。さらに分ける8分類は非常にいいと思いますが、8を覚えて理解し、使うとするとちょっと使いにくいかなというところです。

4.五行論+αを加える 

 陰陽論に五行論も加えるとさらに面白い変化が生じます。何が面白いのかというと、陰の五行、陽の五行を作ることができるので、10にすることが可能です。さらにこの10は陰陽として相互に関係しあうという話にして、陰が主導という状況にすれば、主体が5で、サブが5というように考えを広げていくことが可能になります。

 身体を分類するのもそうですが、物事を分類するのは、2も5もいいですが、3という分け方も重要になります。例えば、陰陽論だと上・下ですが、三才思想という考え方だと上・中・下と3つにできます。この上・中・下に陰陽論を合わせると、上の陰・陽、中の陰・陽、下の陰・陽と分けることができます。

 これが東洋医学でよく見かける、上焦・中焦・下焦であり、臓腑の配当になります。この考え方で臓腑を配当すると

  • 上焦:心(陽)、肺(陰)

  • 中焦:胃(陽)、脾(陰)

  • 下焦:肝(陽)、腎(陰)

とすることができるのですが、全部「臓だけ」で表したいのに、「胃」という「府」が入ってしまいます。「府」はもともと「陽」という分類になるのですが、中焦の「脾胃」という視点で見ると、「脾」は上へ上げる働きがあるので「陽」、「胃」は下へ下げる働きがあるので「陰」となりますが、これは生理的な考え方を足した状態なので、理論だけでだすと、間違えてしまいます。

 よくみかける臓腑と陰陽の分類では、六臓六腑にならないと理論的には整合性がとれないので、「心包」「三焦」という概念が足されていきましたが、「三焦」はもとから存在していたので、この陰陽・三才・五行というまとめ方をするときに「心包」が作られたのではないでしょうか。

5.東洋医学は分けることが重要

 さて、本来の話に戻ると、病気が生じた場合には、身体の中で何が起きているのか考えていかなければいけないので、物事を複合的に考えて、病の原因、病の場所を分けていくことが大切になります。

 物事をしっかりと分類していくのに、考え方も複合的でないといけないので、『傷寒論』の張仲景は、傷寒病に対しては「八綱弁証」と「六経弁証」を使うことで、身体を複合的にとらえ、分類していくことで、病の始まりから変化を説明しています。

 同様に、「温病論」も「衛気営血弁証」と「三焦弁証」という2つの複合的な視点を用いていくことも大切です。
 韓国の鍼灸などに関しては情報が多く仕入れられていませんが、中国は教科書の翻訳も沢山だされているので、見ていくことも可能ですが、「弁証」という言葉を使っていくことで、身体の状態をしっかりと分類しています。

6.鍼灸は分けることは必要ない

 私自身がいきついた結論は、鍼灸は東洋医学ですが、分けることが必要でないということです。
 例えばですが、「腎」が病の原因である、「肝」が病の原因である、いやいや「〇〇」が病の原因であるという人たちがいるという時点、分けなくてもできるという「適当さ」が鍼灸にはあるのではないでしょうか。
 さらには、東洋医学全否定して現代医学だけでやる人もいるし、適当に刺すだけの人もいるし、全身に沢山打ちまくるという人もいますが、患者さんの「好き・嫌い」「合う・合わない」があるにしても、仕事として成り立っているので、大分、適当なところがあると思っています。
 違うやり方をしたら悪化をするという話もありますが、これだけいろいろと好き勝手にやっていても成り立つということが適当・曖昧さがあるということではないでしょうか。

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