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広島75年目の覚悟と教皇訪問

広島で生まれ育った入社4年目のRCC中国放送の栗栖記者は、昨年、教皇の訪問を取材しました。RCCは広島を拠点とするJNNの系列局です。(TBSは関東を拠点とするJNN系列の基幹局です。)転勤で地方の支局に配属となる大手新聞社やNHKと違い、地域のテレビ局で働く記者は、基本的にその地域を生活を拠点とし、記者活動を続ける「地域で生きていく記者」です。ローマ教皇の訪問は、広島が世界に注目される大きな出来事でした。そこで見たこと、感じたことを地方から全国へ、世界へどう発信していくのか。オリンピックムードで幕開けした2020年は、広島にとって終戦から75年の節目の年でもあります。年が明けた今、改めて記します。

地元メディアにできることは何?

広島市の平和公園にある慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」と書かれています。二度と「繰り返さない」ために、地元メディアにできる事は何かー?考え続ける日々です。

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広島で生まれ育った私は、幼い頃からヒロシマについて学ぶ機会がありました。8月6日は登校日で平和学習をします。広島市の街を歩けば、原爆ドームや慰霊碑など、あちこちで「原爆」という文字に触れます。墓参りに行けば、「昭和20年8月6日」と刻まれた墓石が目につきます。祖母が広島市出身という事もあり、「原爆と広島」は私にとっては身近な話題です。

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ただ、8月6日が日常に溶け込んでいる事と、被爆体験の継承に積極的な事はイコールではありません。原爆投下日時を知らない人が増えていると聞いても、私自身もメディアの仕事に携わらなければ、危機感を持つ事はおそらくありませんでした。

放送局に入社して4年目の去年夏、広島市政の記者として、平和行政や原爆報道の担当になりました。被爆証言者が高齢化する中で、当時の惨状をリアルに伝える事の難しさを痛感しています。私自身も、今自分が住むこの街の焼け野原だった姿を、なかなか想像できません。広く、長く伝え続けるにはどうしたらいいのか、20代の私の視点から伝えられることは何かー?模索する中に「ローマ教皇広島訪問」の知らせは飛び込んできました。

教皇の広島訪問は、1981年のヨハネ・パウロ2世以来38年ぶりのことです。カトリック教徒にとっては、教皇の言葉を直接聞ける大きなイベント。だけど、被爆地ヒロシマとしてはどのように捉えたらいいのだろう?日程が分かった去年6月以来、「今、教皇が被爆地を訪問する意味」を考えながら、取材を始めました。


今、教皇が被爆地を訪問する意味

加藤文子さんは事前に取材したカトリック教徒の1人です。15歳の時に広島市で被爆し、18歳でカトリック教徒になりました。戦後、苦しい生活が続く中で、救援物資をもらいに教会を訪れたのがきっかけだったといいます。この度の教皇訪問を、平和公園の被爆者席で迎えることとなりました。

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「アイアムカトリック ヒバクシャ」

私が自宅を訪問した際、加藤さんは裏紙に「アイアムカトリック ヒバクシャ」と書き、英語の発音を練習していました。自分は原爆の惨禍の中を生き延びたことを教皇に伝えたいと、その日を心待ちにしていました。

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加藤さんは、38年前のヨハネ・パウロ2世のスピーチも平和公園で直接聞きました。「戦争は人間の仕業です」。この言葉を聞き、加藤さんは被爆証言に力を入れるようになりました。「戦争が人間の仕業なら、平和を作るのも私たちだ」と強く思ったからだそうです。

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教皇フランシスコと広島

教皇フランシスコにとって今回が初めての広島訪問ですが、実は何十年も前から広島に関心を寄せていたのだといいます。フランシスコと広島をつないだのは、故ペドロ・アルペ神父という人物です。

1945年8月6日、修道院長として広島市に派遣されていたアルペ神父も原爆に遭いました。大けがを免れたアルペ神父は、医学を勉強していた経験を生かし、臨時の救護所となった修道院で次々と運ばれてくるけが人の救護をしました。半壊した教会で、シーツを引き裂いて包帯にするなどの工夫をし、寝る間も惜しんで治療に当たったのだそうです。広島市の教会には、今でもアルペ神父を慕う人たちがいて、当時の話を聞くことができました。

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その後、イエズス会の総長に選出されたアルペ神父。世界各地中を巡る中で、原爆投下直後の惨状と、焼け野原から復興していった様子を語り続けたそうです。その話を聞き、興味を持った1人が、若かりし頃のフランシスコでした。今回の広島訪問は、フランシスコの積年の願いだったのかもしれません。


資料館には入らなかった教皇

平和公園で開かれた「平和のための集い」には、被爆者や教会関係者ら約2000人が参加しました。教皇フランシスコはたくさんの人とあいさつを交わす一方で、その側にある原爆資料館に立ち入ることはありませんでした。資料館の見学は、元々スケジュールに組み込まれていないものです。スケジュールの都合上、広島滞在はごく短い時間でしたが、それでも広島に立ち寄ったのは、教皇の熱意があってこそだと思います。ただ、遺品の展示を見て、亡くなった多くの人に思いをはせてほしかった。私自身を含め、広島にはそう願う人が多くいたことも、ここに記しておきたいと思います。

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「原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています」

教皇フランシスコが発したメッセージは、核兵器の絶対悪を訴えるものでした。核兵器禁止条約にいち早く署名・批准している、バチカンの立場を明確に示したと言えます。メッセージの中には、広島の市民に向けられたと思われる言葉もありました。

「(犠牲者を)思い出し、ともに歩み、守る事は、平和への道を切り開く」
「記憶は、国々のリーダーの良心に訴えかけます」

89歳の加藤さんは教皇のメッセージを聞き、「残りの人生が消えるまで証言を続ける」と涙を流しました。練習していた通り、「アイアムカトリック ヒバクシャ」と伝えることもできたそうです。教皇のメッセージは、被爆地ヒロシマを強く意識したものでしたが、それだけに、平和公園に敷かれた規制線によって、多くの人がその場の空気を共有できなかったのは少し残念にも思います。終始厳しい警備体制の中、教皇は1時間の滞在を経て広島を去りました。


今、教皇が被爆地を訪問する意味

平和公園の慰霊碑の前に立った教皇の姿とそのメッセージは、世界中のメディアによって伝えられました。教皇が被爆地を訪問する意味は、その「発信力」にあったと思います。平和公園の内外に集まったたくさんの人、メッセージを噛みしめるように聞く人、被爆証言を続けると決意を固めた人・・・。国内だけにとどまらず、世界中にいる13億人のカトリック教徒の中にも、教皇と被爆者の交流を目にし、メッセージを聞いた人がいるのだと思います。

一方で、目を凝らさなくとも新たな軍拡競争の様相が垣間見える国際情勢の中で、核軍縮の道は不透明です。広島市が首長を務め、世界中に加盟国を持つ平和首長会議は、これまで2020年までに核兵器の廃絶を目標に掲げていましたが去年、目標は達成できないとしてそのビジョンを取り下げました。75年前に体験した惨状を訴え続けてきた被爆者は高齢化し、思いをどう継承し続けるのかー。被爆地は大きな課題に直面しています。

世界の国々に対して、地方が訴え続けること。それは並大抵の気持ちではできません。手ごたえが感じられなくても、年齢を重ねて体力が落ちても、被爆者は自分たちと同じ経験を他の誰にもさせてはならないと、訴え続けています。

そんな状況を目の当たりにしているからこそ、私は、ローマ法王のメッセージが被爆地の大きな後押しとなっている事を願ってやみません。地方の出来事が、世界中に発信される事は本当にまれな事です。この機会を捉え、「核兵器の使用は倫理に反する」その言葉の意味が世界中の人に広まりますように・・・。被爆地は願っています。



来栖記者

RCC中国放送・栗栖千尋記者
2016年入社。県警担当を経て現在広島市政担当。
これまで平和関連報道や西日本豪雨を取材。