殺人実行者との対話 記者として、 障害児の父として(前編)
「調査情報」2018年5-6月号 no.542より
※前編をnoteで無料公開します
RKB毎日放送 報道制作局次長 兼 東京報道部長
神戸金史
「障害者がいなくなればいいと思った」
神奈川県相模原市の障害者施設で、19人の命が奪われた事件で、逮捕された男の供述である。人間の尊厳を踏みにじる言動に、「心の中をやすりで削られているように感じた」と話す、障害者の父親がいる。
あれから1年。
自閉症の子どもを持つ記者は、ラジオドキュメンタリーという手法で投げかけた。テレビ、ラジオではなく、放送を考える時、目の前には残さなければならない事実があった。
2016年7月に起きた相模原市障害者施設殺傷事件は、多くの人々に衝撃を与えた。障害のある息子を持つ筆者は、記者として植松聖被告に対峙することを決意。本稿はその記録である。
前編では、植松被告に対面するまでの過程が克明に綴られ、事件の背景に存在する「課題」を浮き彫りにする。
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相模原事件・植松被告からの手紙
重い障害を持っている子の親に、こんな話しは誰もしたくありません。もちろん自分の子供が可愛いのは当然かもしれませんが、逆にお尋ねしますと、いつまで生かしておくつもりなのでしょうか。
相模原市の津久井やまゆり園で、障害者46人を殺傷した犯人、植松聖被告から届いた手紙。障害を持つ息子をあなたはいつまで生かしておくのかと、私に問いかけている。
拘留され裁判を待っている彼が、事件を反省していないことは知っていた。しかし、彼からの手紙を読んだ私は、首筋に寒気が走った。
殺人実行者が今まさに目の前にいて、手に持った刃をまっすぐ私の目に突き付けているような気分になった。冷たい目で「さあ、答えよ」と言っているのだ。
事件から1年3か月が過ぎた昨年11月。法務省横浜拘置支所に勾留されている植松被告に、面会を求める手紙を私は書いた。
多くの取材者が面会を求めて手紙を出していると聞いていたが、事件直後を除き、彼は今、新聞では誰、テレビでは誰、雑誌では誰々と、面会する人をメディアごとに1人に限定しているという。だから、「今ごろ手紙を出しても難しいのではないか」と思う反面、意外と簡単に会えるのではないかとも予感していた。
私が、障害児の父親だからだ。率直に書いてみた。
はじめまして。
私は、福岡市にあるTBS系列の放送局、RKB毎日放送という会社に勤めている記者で、現在50歳です。長男は19歳で、重度の知的障害を伴う自閉症があり、さらに口蓋裂による構音障害、聴覚障害、片目の弱視も持っていますが、一定のコミュニケーションは取れます。
津久井やまゆり園であなたが事件を起こした時、東京に単身赴任している私は、TBSに駆け込んで特番の制作を見守りました。そして、福岡で暮らしている長男のことを考え、いたたまれない思いにさいなまれました。こうした気持ちになった障害児の親は、日本中にたくさんいると思います。
事件の3日後、Facebookに自分の個人的な気持ちを投稿してみました。その文章を読んだ多くの人々から後押しされ、事件から3か月後の昨年10月26日、1冊の本を出版しました。あなたの事件がなければ生まれなかった本
です。お送りいたしますので、ご覧になってみてください。
報道では、「障害者は不幸しかもたらさない」「生きていても仕方がない」といった供述内容が伝えられています。しかし、あなたは「そうは言ってはいない」と話している、とも聞いています。
あなたは本当に、そのように考えておられるのでしょうか。そうならば、どうしてなのでしょうか。私は、直接うかがってみたいと思うようになりました。
私は、重い障害を持っている子の親です。家族である私に対して、「なぜ事件を起こしたか」を自分の口から説明してみたい、とは思いませんか。
また、そうした特別な立場の記者を通じて、思いを世に伝えてみたいとはお考えになりませんか。私はラジオでの放送を考えています。
よろしければ、面会の日時をご指定ください。お返事をお待ちしております。
1週間後に、植松被告から2つの大封筒が届いた。横浜拘置支所からの発信には枚数制限があるため2通に分けたという。トータルすると便箋20枚、小さな字で丁寧に書かれていた。すべての紙に、検閲済みの印が押してあった。
横浜拘置支所の植松被告から届いた手紙
ほかに、自筆のイラストが3枚同封されていた。2枚は、蛍光ペンと色鉛筆を使って描いた、鯉と龍(5ページ)。入れ墨のようなタッチでかなりうまいが、よくよく見るとどこか不気味さがある。彼は身体にタトゥーを入れている。
もう1枚は、酔ったような男性のイラストだった。よだれを垂らし、目の焦点は合っていない。説明はなく、気味の悪さが先に立つ。彼は大麻を使用していた。薬物でトランス状態に入った時の自画像だろうか。
植松被告自筆のイラスト。筆者はこの絵の意味を知り、衝撃を受ける
そうではなかった。直接会った時、「これは〝心失者〟を描いたものです」と、彼は説明した。「心失者」という耳慣れない言葉は、植松被告の造語で、事件のキーワードだ。津久井やまゆり園で殺害したのは心失者、「心を失った人」なのだという。彼は、被害者をこの絵のように見ているのだった。当初、自画像だろうかと思い違いをしていた私は、ここでも大きな衝撃を受けた。 植松被告は、便箋にこんな文章を書いていた(読みやすさを考慮し、筆者が読点をいくつか補っている)。
やまゆり園はいい職場でしたし、すっとんきょうな子供の心失者をみると笑わせてくれます。子供が可愛いのは当然です。
ですが、人間として70年養う為にはどれだけの金と人手、物資が奪われているか考え、泥水をススり飲み死んで逝く子どもを想えば、心失者のめんどうをみている場合ではありません。
心失者を擁護する者は、心失者が産む〝幸せ〟と〝不幸〟を比べる天秤が壊れて、単純な算数ができていないだけです。(中略)目の前に助けるべき人がいれば助け、殺すべき者がいれば殺すのも致し方がありません。
「障害を持つ息子へ」(筆者注:事件後に私が執筆した書籍の題)を差し入れてくださいまして、誠にありがとうございます。これほど障害を持つ子供を育てる母親の悲鳴を伝えた資料はありませんでした。読み終えるとすぐにペンを走らせてしまいました。
この度は、せん越ではございますが、本の感想を書かせていただきました。とても恐縮で失礼な表現もあるかもしれませんが、ご拝読くださいませ。
(筆者注:以下の2文は、書籍の中で私が彼に向けて書いた言葉を引用し
ている)
愛したひとはいなかったのでしょうか。愛する人が突然の不幸に遭った時に「もう必要ないよ」と、言うのでしょうか。
このような主張は一番むしずが走ります。
もしも、自分が何もできなくなり、残された愛する人に世話を押し付けて当然とする考え方。
「愛しているから殺さないでしょ? 糞の世話だってやってくれるよね?」
こんなクズはさっさと殺した方が良いでしょう。
誰だって死んで欲しくありませんが、生きている限り「死」は受け入れなくてはなりません。(中略)大至急、彼女たちを苦しめる化け物を殺してあげたい。
このような手紙を受け取った私は、改めてこの事件の恐ろしさを痛感した。そして、今も殺人を肯定している彼の視線が、明らかに私の家族に向いていることに動揺した。
そんな相手に、普通の取材のように平然としゃべれるだろうか。
分かり合うつもりがない人間に対して、私は何を語りかけるべきなのか。
そもそも、会う意味があるのだろうか。
会ったところで、私は深く傷つくだけなのではないか――。
しかし、私は記者であり、自ら面会を望んだのだ。会う以外の選択肢は、ない。植松被告との面会日は、12月12日に決まった。
ラジオドキュメンタリーの企画
植松被告との面会内容を記す前に、なぜ私が会おうとしたのか、その経緯を記しておかなければならない。
2016年7月、相模原市で障害者46人が殺傷される事件が起きた直後、障害児の父親である私がFacebookに投稿した1000字あまりの個人的な文章は、TBSテレビの『NEWS23』で全文が朗読された。放映から3日後の2016年8月6日の時点で、この動画がヤフーニュースで1万3000回以上シェアされていった。新聞各紙や在京ラジオ各局が相次いで文章の全文を採り上げたほか、さらに書籍化の依頼も来た。これを受けて、事件から3か月後に『障害を持つ息子へ』(ブックマン社)を出版した。
私がFacebookに書いた全文とその拡散過程は、2016年11月1日発行の本誌「71年めの学び」に、『「憎悪」は笑顔の形で現れた』という題で寄稿しているので、そちらをご覧いただきたい。
2017年に入ってからも、SNS上での拡散はゆっくりと続いていた。3月、大阪在住の趙博さんからFacebookの友達リクエストが届いた。「パギやん」という名で、歌手や役者として活動しているという。
パギやんは4月末、東京・新宿のゴールデン街でライブを開くという。私は興味を持って、パギやんと初めて会い、杯を交わした。
その際に、「僕の文章を詩だと言う人がいるが、もし詩だと言うならば、曲を付ければ歌になるってことですか」と聞いてみた。パギやんは「もちろん!」と言うので、「じゃお願いします」と冗談交じりに頼んでみた。そして7月、私の文章を一字一句削っていない、立派な歌となった音源が届いたのだ。それは、私の予想を上回る表現だった。
この歌を何かに活用したい。私は友人と相談して、一つのプロジェクトを始めることにした。
Facebookを通じて、障害を持つ子どもへの愛情が込められた写真をインターネット上に公開してよいという方を募集した。さらに、「この1年の間に撮った今の姿の写真もください」と呼びかけ、締め切りを相模原事件からちょうど1年後、「2017年7月26日」とした。
相模原事件では被害者は匿名で、どんな人が犠牲になったのかも、社会には十分伝わっていない。幼いわが子の愛らしさ、そして事件後の今。「障害を持つ私たちの子には、顔も名前もあるのだ」というメッセージを、親として伝えたかった。
67人の写真が集まった。TBSの有志が、パギやんの歌声に乗せてスライドショーに編集してくれた映像を、ユーチューブで個人的に公開した(英語字幕版も制作してみた)。『障害を持つ息子へ』で検索すれば、ネット上で誰でも視聴できるようになっている。
しかし、これはプライベートな活動だ。放送局に勤める身としては、パギやんの歌を地上波で流してみたいと思ったが、8分もある曲は長すぎる。
たまたま、TBSラジオの鳥山穣・統括編集長と酒を飲んでいた時に、歌ができていることを話してみた。鳥山さんは「では、ラジオで1時間の特番を作りませんか」と言い出した。驚く私に、鳥山さんは「歌のほかに、1つ2つの山があれば、1時間はいける。年末年始なら、特番の枠も取りやすい」と、企画書を書いてみるよう勧めてきたのだった。
こんな経緯で始まったRKB毎日放送とTBSラジオとの共同番組企画なので、当初の中身はパギやんの歌がメインだった。
相模原事件で障害者を殺傷した植松被告は、自分と障害者との間に明らかな一線を引いていた。企画書を書こうとした私は、近年関心を持って取材している物事と、相模原事件との間に、ある共通点があるように思い始めた。
米軍基地の負担を本土から押し付けられ、「土人」とののしられる沖縄。「半島に帰れ」とヘイトスピーチを受ける在日コリアン――。相模原事件と共通しているのは、「ある人々と自分の間に一線を引き、線の向こう側の人々の存在や尊厳を否定する行為」であることだ。
私の手元には、すでにこれらの音源があった。これらを「線を引く」というキーワードでくくり、現代の日本の問題点を描いてみよう、と思った。そんな企画書に、鳥山さんは「SCRATCH」というタイトルを付けてきた。英語のスクラッチには、「地面にガリガリと線を引く」という意味があるという。
台本を書き始めたころ、TBSテレビの『報道特集』を見た。TBS社会部の西村匡史記者が、植松聖被告と5回にわたって面会し、その内容を伝えたのだ。西村記者は、面会を実現するため、何度も植松被告と手紙をやりとりしたという。西村記者は、相模原事件の直後に『NEWS23』に私が出演した際、コーナーを担当してくれた記者だった。
放送を見て私は考え込んでしまった。
事件発生当時から、私は単身赴任で東京で暮らしていたが、事件の現場に行くことは避けていた。正直に言うと、見に行きたくなかった。TBSのエリアで起きた事件に、横から口を出すのも気が引けたし、「今さら行ったところで」という気持ちもあった。
しかし、障害者と自分との間にはっきり一線を引いている植松被告に、私は親としての思いをしっかり伝えるべきなのではないか。そして、そのやりとりを、記者として報道すべきなのではないか。
鳥山さんに相談したところ、「もし応じるならば、ぜひ番組に入れたい」と言う。こんな経緯で、私は横浜拘置支所にいる植松被告に手紙を書いたのだった。
返信を読んでから会う覚悟を決めるまでに、1週間を要した。
実際に植松被告と会う。ラジオ番組の軸足は、大きく相模原事件にシフトする。鳥山さんの言う「番組の山」は、パギやんの歌と、植松被告との直接対話ということになる。
報道ドキュメンタリー『SCRATCH 線を引く人たち』は、RKB(北部九州)とTBS(関東)で12月29日の夜に放送することが決まっていた。16日にはナレーションを録らなければいけないが、植松被告が指定してきた面会日は12日だった。かなり急いで仕上げなければならない。
面談が、果たしてどう展開するか。
分かり合うことはありえない面会の後で、番組をどう着地させるか。
何も分からないままの状態だったが、私は2人の方と会うアポを取った。植松被告との面会の前にまず、保坂展人・世田谷区長と会い、事後には北九州市でホームレス支援を続けている東八幡キリスト教会の奥田知志牧師をと考え、お願いした。
もちろんインタビューを番組に使わせていただくつもりだったが、個人的なもう一つの側面があった。
保坂さんには事前に、「私はいったい何を聞くべきなのか」を相談したかったのだ。そして、たじろいでいる私自身の背中を押してもらいたかった。
保坂さんと会ったのは、2017年1月に早稲田大学の教師教育研究所が主催した「相模原障がい者施設殺傷事件で問われているもの」と題したフォーラムでだった。パネリストとして呼ばれたメンバーに、私も保坂さんもいた。保坂展人さんはフォーラムの参加者にこう語りかけた。
「やまゆり園の事件は、子どもは子どもなりに覚えています。ショックも受けているんだけど、授業でこの事件についてみんなで議論したという先生が、全国で果たして10人いるでしょうか。そのことについて、子どもたちと一緒に考えるということを、これからでも遅くはないんじゃないか。でも、まずは10人出てきてほしい。日本中で。学校の先生を辞めた方も奮起して、地域の子どもたちを集めてですね、たとえ3人でもいいですよ。語り始めましょうよ」
この時の力強い保坂さんの言葉を思い出した。インタビューのアポが取れたのは、植松被告と面会する前の日だった。その場で、植松被告からの手紙を読んでもらった。
神戸: 僕の子どもも殺すのですか、という質問をするかもしれないわけです。それを考えた時に、「こんな取材をしていいのだろうか」という気がしてきました。
保坂: 非常に耐えがたいことだと思うんですけども、でもやっぱり、「生かしておくんですか」ということに対して、「違う」「奪っていい命はない」と、きちっと言うことも必要だと思うんですよね。
ヘイトデモが増長していけば、例えば、障害を持つ人、認知症になった人、生活保護などを敵視して、外国人労働者が入ってくれば、その対象になる。すべて一連の発想だと思いますね。今後、この事件が、忘れられていったり、全く語られていなかったりすること自体が、もう敗北だと思います。
ぜひ、彼がなぜこんな攻撃的な言動あるいは手紙を、いまだに改めないどころか、むしろこう強くしているっていう、そのことを問うてほしい。
神戸 :では、やはり私は会うべきだと?
保坂 :ぜひ会ってほしいと思います。頑なに犯行を正当化している思想は、どこで何がきっかけで、どういう理由で大きくなったのか、ぜひ聞いてほしいですね。
そして、面会後に会うことにしたのが、奥田知志さん。福岡県北九州市で30年以上にわたり、ホームレスの人たちの社会復帰を支援してきた牧師だ。3000人以上が奥田さんたちの支えを受け、自立していったという。面識はなかったが、植松被告との面談内容をお伝えし、意見を聞くのにふさわしい
方だと思った。だが、実は奥田さんにお願いしたのにも、もう一つの個人的な理由があった。
もし私が、親として大きな精神的ダメージを受けていた場合、牧師である奥田さんに相談をし、助けていただきたいと考えたのだった。
(後編に続く)
かんべ・かねぶみ/1967年生まれ