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”情報は東京に集まる”は本当か

インターネットで都会と地方の情報格差は解消したのか

東京には情報が多く刺激的だが、地方は情報が少ないので退屈だ。
こういう話題は地方で生活しているとよく出会う。地方の経営者は「最新の(株や先物の)マーケットの動きを知れるから東京は意思決定しやすい」といい、地方の学生は「東京の就活生は企業の採用情報に触れられるから有利だ」という。

でも、本当に情報は都会に集まり、地方には集まらないのだろうか。
 
例えば、先程の経営者は「東京は最新のマーケットの動きを知れる」と言っていたが、マーケットの動きはほぼリアルタイムでWEBに公開されてるし、学生の言う就活情報もワンキャリアや口コミ掲示板、求人サイトなどWEBで情報収集しているという。WEBの情報であれば(インターネットにアクセスできれば)場所は関係ないはずだ。
 
そう考えると、東京と地方の情報格差のせいにする人は、自分の情報収集力不足を場所のせいにしているんじゃないかとも思う。

情報は3つに分けられる

情報と一言で言っても受け取り方にばらつきがあるので3つのタイプに分けてみた。「主体的に取りにいける情報」「あなたを選んでもたらされる情報」「無意識に入ってくる情報」である。
 
「主体的に取りにいける情報」はマスメディアやWEBに拾われた情報である。アンテナを立てていれば、WEBで検索して調べたり、SNSのタイムラインを眺めたり、グーグルスカラーで論文を検索したり、スマートニュースでキュレーションされたニュースを確認したりすることができる。
 
「あなたを選んでもたらされる情報」はその情報を有効に使ってくれそうな人に対して相手から届けてもらえるものである。例えば、投資家のもとには毎日多くの出資話が来るだろうし、大物政治家のもとには法律や経済に関する多くの情報が届けられる。社長のもとには毎日のように営業電話がかかってくる。出資してくれるかもしれない、何か口利きをしてくれるかもしれない、商品を買ってくれるかもしれない、そういう何かしらのリターンを期待できる人には情報がもたらされるのだ。
 
「無意識に入ってくる情報」は、日々の生活で見聞きする情報、感じる情報である。例えば通勤のときに新しくできたお店を見つけたり、旅行先で潮風の匂いを感じたり、新商品のコンビニスイーツを味わったり、などである。五感を刺激する情報とも言い換えられるだろう。


タイプ別にみた”情報”の特徴

「主体的に取りにいける情報」については、住む場所に関係なく同じ情報を取得することができる。自らが主体的に取りに行ける情報はテクノロジーの進化によって住む場所の制約をほぼ無くなった。このタイプの情報を取得できるか否かは「自らがアンテナを張っているかどうか」が最も重要であり、住んでいる場所は大きな要素ではなくなった。
 
「あなたを選んでもたらされる情報」についても住む場所は関係ない。どこに住んでようとリターンが期待できる人のもとには情報が集まる。沖縄県に住む投資家のもとには全国から起業家や金融機関が訪れているし、地方自治体の首長(市長や知事)のもとにも名だたる企業の経営陣がやってきては色々な情報を提供している。このタイプの情報は今も昔も、住む場所は関係なく期待される人には情報が集まり、期待されてない人には集まらない、という身も蓋もないものだ。
 
「無意識に入ってくる情報」は住む場所によってその“特徴”が異なる。都会にいれば日々スクラップアンドビルドされるオフィス街を目の当たりにするし、オシャレなファッションの人も多く見かけるだろう。田舎にいれば直売所にならぶ野菜から季節の変化を感じられたり、同じ集落のおじちゃんが町立病院から大学病院に転院した、といった話にふれることもあるだろう。それらの情報はその土地に紐づいており、メタバース空間が広がろうと、ウェアラブルディバイスが進化しようと、これら土地に紐づく情報はこれからも存在し続ける。
 
それら情報の3つのタイプと、情報を取得し処理するための条件をまとめたのが以下の表だ。

情報を取得するために場所よりも大事な条件

インターネットの進歩により都市と地方の情報格差はなくなったのは、「主体的に取りにいける情報」であって、「あなたを選んでもたらされる情報」は今も昔も住む場所は関係ないし、「無意識に入ってくる情報」は今もなお場所に紐づいている。
 
しかし、それでも東京のほうが情報が多いと言われるのはなぜだろうか。それは情報が情報たるためには、受け手の「それを意味ある情報に変える力」に依存しているのではないかと思う。
 
「情報」の定義を「受け手において知識をもたらしたり、適切な判断を助けたりするもの」とする。
同じものを見聞きしたとき、それを情報として活用できる人と、ただの刺激にしかならない人がいて、その差を生むのが知識や経験、知的好奇心や物事を構造的に理解する力となる。
 
魅力的に見える広告も、イケてる新商品も、これらは多くの人に理解してもらえるように加工したメッセージだ。都会は情報が多いと感じるのは万人にとって理解しやすい加工して発信しているからである。逆に田舎はそういった発信が少ないので、情報が少ないと感じる。しかし、どこまでも広がる田んぼや畑に目をやると季節ごとに違う作物ができており、その栽培方法もその地域伝統のものであったり、バイオテクノロジーを駆使したものだったりする。またその地域の特産品となっている農産物を見れば、農業の市場経済化の変遷を感じられるかもしれないし、農業団体の利権が垣間見え、そこから食の安全保障について考える機会が生まれるかもしれない。
 

同じものを見ても、有益な情報に変えられる人と見過ごす人の差

 つまり、都会も田舎も情報の特性に違いはあるにせよ情報の量に差があるのではなく、知識や知的好奇心のようなものがあれば、あらゆる刺激を情報に変えられる。逆にそれらを持ち合わせてなければ、単なる刺激で終わり情報に変えられない。都会は受け手に理解しやすいように設計されたメッセージが飛び交い、それらは特に知識や知的好奇心が無くても有益(と思えるような)な情報に変換できてしまう。

東京には万人が理解できるよう加工されたメッセージが多いため、それを情報と感じることができるが、田舎にも情報に変えるネタは多くある。しかし、ネタを情報に変えるためには知識や知的好奇心が必要なので、それを持ち合わせてない人からすると、やはり「情報は東京に集まる」ように見えてしまうのだろう。知性や教養の類は人生に彩りを与えてくれる。

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