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そろそろ、“医療の正義”の話をしよう①

はじめに

 新型コロナ感染症の拡大は、大阪や東京などの特定の地域において、行政に携わる人々、及び、救急医療や感染症医療に関わる医療者に、危機感と終末期感とを、ある一定期間において与えたことは間違いがないようである。これは医療危機であった。

 我々の日常には、様々な「矛盾や誤魔化し」が隠されている。これには、今までの歴史的な背景があり、変化した時代と変えないできた習慣のずれから生じる矛盾もあるだろう。また、明らかな意思を持った誰かによって、我々の日常生活にかすめ入れられた誤魔化しもたくさんあるように思う。これは、この事実を声高に説明すれば、必ず、強く反発される恐れがあるような事柄において行われる。そのような事柄は、いつの間にか日常に潜り込ませてしまうのがよいことを、為政者や力のある賢い人は知っている。我々日常生活者は、その誤魔化しに気づくことは希である。希というより、考えないようにしているのかもしれない。それでも、日々は回っていくからである。そして、我々は、世の中がいつの間にか変わってしまっていることに、ある時、気づく。「あれ、いつからそうなったのだ?でも、みんなが反対するわけでもないから、そう、問題ないだろう」と受け入れてしまうのである。

 しかし、危機の時には様相が変わる。世の中の「矛盾や誤魔化し」が一度期に見えてくることがあるのだ。真っ暗な映画館にいて、いきなり映写が始まるが如く浮かび上がってくる。それは、「矛盾やごまかし」が直接自分に降りかかってくるからだ。特に、医療危機の場合、それは自分の健康や生命を左右する問題として、である。このコロナ危機において、私はいくつかの日本の医療の「矛盾と誤魔化し」を見つけた。同じようなことに気づかれた人は、私以外にもいるはずである。所々で、時代や社会に敏感な方々が、日本の医療に違和感を持っているというコメントを見つけるからだ。私はそれを心強く感じる。しかし、少し残念なのは、それらのコメントは自らの専門性の枠から超えるものがあまりないことである。つまり、自分の意見を理解してくれそうな人をのみ対象にしているのだ。これでは、問題提起としての力は弱く、一般の人々を巻き込んで考える契機にはなり得ないだろうと思う。
 その理由を私は理解ができる。このインターネット全盛の社会において、社会の体制が「それでいいだろう」とされている事柄に対して、少しでも疑念を表明したときの代償は大きいからだ。人々はSNSにおいて、皆が正しいと表明していることに類似した発言をするとき、必ず守られる。皆が、たくさん「いいね!」を押してくれて、投稿者は安心し、自分は時代に合った発言者であることを確認できる。しかし、大勢の人が「良いと思っていること」に対して疑義を表明するとき、彼は、守られない。おそらく、インターネットというものがどれだけの圧力を持っているのか、その恐ろしさを知ることになるだろう。相手は、何万人いるか分からない。そして、その殆どの人が、本当に自分で考えて発言しているのかは怪しいのである。人は、自分が大多数側にいるとき、深く考えることをしない。いや、する必要がないのだ。なぜなら、前述したように、大多数側の人間は、すでに守られているからだ。
 今の日本は、インターネットを介して、誰でも自分の意見を自由に世界に発信できるようになった。これは素晴らしいことである。このシステムのおかげで、遠く離れた地の紛争でさえ、我々が隣町の事件のように画像で知ることができるようになった。しかし、私はインターネットの怖さを、日々、感じるようになった。世の中の大多数が「良いと思っていること」を疑うことが。とても難しくなったのである。「あの偉い人がこう言ってるからそうなんだろう」「みんながこう言ってるからこうなんだろう」「自分は、ちょっと違う感じがするんだけど、きっと自分は間違ってるのだろう」と、そんな思考ともならない思考法が、この社会を席巻してしまったと思う。

 私は、開業医の2代目として成長してきた。子供の頃、私の日常には、地域に丸ごと浸かって医療や福祉のお手伝いをする父やその仲間が、常にあった。そして、私は医者の道に進み、大学病院で20年間、外科と救急医療を勉強してきた。まさに必死で勉強し、臨床に励み、研究も重ねてきた。本当に、地面を這いずる回るような修練の日々であった。その中で、私は常に目の前の医療にいくつかの違和感を感じてきた。「なんか、おかしいな?」という感じである。「みんなが正しいと言うけど、本当なのか?それは、だれがそう決めて、そうななったのだろう?」と思い詰めて、調べたことが何度もある。しかし、私が納得できる答えを示してくれた人は皆無であった。調べれば調べるほど、為政者の都合や、いつの間にかそうなっているということばかりであった。そして、表に出ているのは、真意を隠すための綺麗な言葉ばかりだった。
 私は医師生活25年を経て、2021年5月に「在宅医療の真実(光文社)」という本を出す機会を頂いた。その本を書くとき、初めて、私が長年抱き続けた、医療に対する違和感について述べることができたと思う。しかし、それは、ほんの一部に過ぎなかった。そして、コロナ危機である。私の違和感は「矛盾と誤魔化し」に結びついていることを、私は知ることになったのである。
 
 幸福なことに、この医事新報において、12回の連載の機会を頂いた。誰が読むか分からないこの誌上で、私が見た日本の医療の「矛盾と誤魔化し」を私の思考に定着させる試みを行いたい。それは、きっと、私の違和感の理由を明らかにし、“医療の正義”を考えることにつながると思うからである。

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