テレワークゆり物語 (133) 大好きな母とのさようなら記録
2022年11月9日、日付が変わった頃、母が亡くなりました。
自分を中心に世の中が回っているかのように、好きなことして、好きなもの食べて、好きなところへ旅行して、まさに自由奔放。でも、愛情たっぷりに私を育て、応援し続けてくれた、母の90年の人生が幕を閉じました。
ひとり娘の私にとっては、母親であるだけでなく、姉妹であり、親友であり、大切なケンカ友達でした。
そんな存在を失うことは、ちょっとやそっとではめげない私でも、つらくてつらくて、悲しくて悲しくて、寂しくて寂しくてしかたがありません。
母は、明るく、友人も多く、たくさんの方が悲しんでくださるのですが、本人の希望もあり、通夜もお葬式も基本家族のみでゆっくり過ごさせいただきました。
小学生の頃から、「最大の親孝行は、親より長生きすること」と考えていた私にとって、ひとつの大きなミッションを終えたことになります。
本来なら、母が生前にお世話になった方、おひとりおひとりにご報告をさせていただくところ、申し訳ありません。この場(note)をお借りして、お礼とご報告を書かせていただきます。
自分への記録も含めて、長い内容になってしまいました。また、いたって個人的な話ですので、以下の目次から、読んでみようかな、と思われる項目がありましたら、ご高覧いただければ幸いです。
母がお世話になった皆様、母はいい人生を送ることができました。
本当にありがとうございました。
2022年 11月14日 朝
ここ数年の母の記録
2020年春。コロナ禍が始まり、念の為にと1週間ぐらいを想定して両親を北見に呼び寄せた。しかし、はじめての緊急事態宣言が発令され、そのまま滞在することに。さらに、母の心臓弁膜症がわかり、入院・手術。結局、一年近く北見で暮らすことになる。
2021年春。ようやく生駒に戻る。私は、奈良での生活の立て直しと日々の世話のために、奈良と北見の2拠点生活に。しかし、テレワークのおかげで仕事にはほとんど支障なく、改めて自分の働き方に感謝する。
母の心臓は手術で弁の機能を取り戻したものの、年齢のこともあり、(本人曰く)息がしにくく、不安な生活が続くことになる。
2021年夏。「暑い夏は、いつものように北見で過ごしたい」という母のリクエストに応えて、再び両親を北見へ。大好きな温泉にほぼ毎日つれていき、涼しく、楽しい夏を過ごした。
2022年春。心不全から肺に水が溜まり、入院。夏には2回めの入退院。病院から戻るたびに弱々しくなる母・・・。私も奈良が生活の中心になり、北見へは月に2.3回しか帰れなくなった。
母は「もう死ぬんちゃうやろか」と弱気になる時もあったが、「お母ちゃん(私の祖母)は98歳まで生きたから、わたしもそこまでは頑張る」と言い続けていた。
私も、そのつもりでいた。
2日前の『パステル』での記録
母が60歳の時に始めた「ブティク&喫茶パステル」。母が続けることは体力的に難しいが「パステルはわたしの応接間やから、無くなると寂しい」という。そこで、私の仕事にからめて、今年の6月に「テレワーク &喫茶」として、リニューアルした。
リニューアルはしたものの、日曜日のみ、母の「喫茶店」として営業を続けた。母の体調に合わせつつ出勤(?)、短い時間だが、パステルでお客さんたちと良い時間を過ごすことができた。
2022年秋。特別に暑かった奈良の夏を乗り越え、爽やかな季節がやってきた。10月は、日曜営業のアルバイトさんが怪我をしてお休みが続いていた。母の体調もよくなってきていたので、11月6日の日曜日は、久しぶりに喫茶店としてのパステルをオープンすることにした。
私は珈琲を淹れられないので、三女と次女に来てもらい、家族営業。予告なしOPENだったので、お客さんはほとんどいなかったが、ひ孫もやって来て、穏やかで楽しい時間を過ごすことができた。
母は、サイフォンで2回も珈琲を淹れた。いつもなら1時間ぐらいで帰るところを、10時から15時まで、営業時間ずっとパステルで過ごした。うれしそうだった。
母とさよならする夜の記録
パステルで過ごした翌々日の11月8日火曜日。私は早朝から東京出張に出かけた。出かける前、母の朝ごはんを用意。
私「じーちゃんと一緒に食べてな。薬、ちゃんと飲みや」
母「それぐらいできるわ。あんたこそ、気いつけて行ってきいや。あんたに何かあったら大変や」
そんな会話を交わしたと思う。
その日の夜9時半ごろ、父からLINEで酸素濃度94%の写真が送られてきた。心配する数字ではないが、いつもは97-98あるので低め。
私「もう一度測って上がるか下がるか見て。下がらなければ心配ないよ」
しばらくして「酸素濃度95%」の写真と「安心した」というメッセージが届く。ここらへんで、私は眠りについた。
11時過ぎだろうか。母の携帯から電話が入る。
母「ゆりちゃん、しんどいねん。息でけへん」
私「大丈夫。電話できてるから。息もできてるから」
冷たいようだが、実はこの会話はいつものことで、時には夜中に何度でも携帯がなる。「オオカミ少年」ならぬ「オオカミ婆ちゃん」だったのだ。
奈良の実家にいればすぐに母の部屋へ行くのだが、今夜はそれができない。
母「ほんましんどいねん。もう遊ばへんから、どうにかして」
今まで遊んどったんかい、と心の中で突っ込みつつ、
私「じーちゃん呼んで、酸素濃度、測って」
父が来ると、さらに苦しそうな声になる。私も不安になる。
私「救急車、呼んで!」
母「何番や?」
私「119や。あんたが呼ばんでいい。じーちゃんに呼んでもらって!!」
電話を切って、実家の2階にいる三女に連絡。
私「ばあちゃん、具合悪い。下降りてすぐ救急車呼んで!」
三女「わかった!」
東京にいる私は、それ以上何もできなかった。
なんで、私は今、ばあちゃんのそばにおれへんのや!あほやんか!
LINEで長女と次女に、救急車を呼んだことを伝えつつ、外に出て、とにかくタクシーに飛び乗る。
東京駅八重洲口。0時を少し回っていた。
関西行きの最終バスの案内が流れている。
私「乗れますか?」
乗務員「今からですか?無理です。満席です」
私「キャンセルありませんか?身内が危篤なんです」
乗務員「まだ来ていない人が一人いるので、来なければ…」
来なかった。どなたか知らないが、心からありがとう。
夜行バスなので、京都への到着時間は、朝7:40。明日の朝一番の新幹線や飛行機と大きく変わるわけではない。でも、乗りたかった。少しでも近くに、少しでも早く、母の元に行きたかった。
バスが出発して少し経った頃、三女から連絡が入る。
日をまたいだ、11月9日0時26分、母は90年の人生を全うした。
長い時間苦しまずに、自宅で、大好きな父がそばにいる中で、その時を迎えることができたことは、せめてもの慰めである。
父の様子の記録
父と母が出会ったのは、70年近く前。
それ以来、いつも2人で一緒にいる。
母の超がいくつも付く「わがまま」に対し、父はいつも「はい、はい」とやさしく応えていた。娘の私が、いらいらするぐらい、母に甘い父だった。
父「私の人生は、良いことはそんなになかったけど、ばあちゃんと出会ったことが一番のラッキーや。感謝している。」
そんな父をご存じの方は、とてもとても心配してくださっていると思う。
前述のように、母の最期の瞬間まで、一緒にいることができて本当に良かった。
父の悲しみ、寂しさは、言葉では語りつくせないほど大きいはず。でも、取り乱すこともなく、粛々と母を見送る姿は、痛々しくもあった。
私も孫たちは、月並みな言葉しか出て来ない。それに対し、父は「大丈夫」というだけ。
とはいえ、朝7時に自分で起きるし、食事もちゃんと取っている。葬儀が終わってから、少し前向きな言葉も出始めた。
父「散歩をしたり、買い物にもいく。大阪にもひさしぶりに行きたい」
親子三人が、二人になってしまった。父の新しい生活をフォローできるよう、私ができることをがんばろう。
家族への感謝の気持ちの記録
今回のことで、家族のありがたさ、特に娘たちのありがたさを、心底感じた。
生駒にいる三女は、母の大変な状況の中、救急車や病院の対応、父を支えつつ、私へのつらい連絡をがんばってくれた。
大阪に住む次女は、救急車を呼んですぐタクシーに乗って奈良に向かった。夜中にもかかわらず、三女とともに、病院から自宅に戻った母のそばにいてくれた。
ロンドンに住む長女は、私が夜行バスに乗っている間に飛行機を手配し、翌日の夜には関西空港に到着。長女らしくテキパキと段取りしてくれた。
夫も翌日には北見からかけつけてくれた。
次女の旦那さんは、孫の世話をしてくれた。
ひとりっ子の私にとって、彼らの存在は、本当に大きかった。
ただただ、感謝である。
以上、長々と、ご報告をさせていただいた。
母が生前お世話になったみなさま、本当にありがとうございました。
母はとても幸せな90年を過ごすことができました。
心から感謝申し上げます。
※冒頭の写真は、2019年夏、北見に避暑にやってきた母との、近所の公園でのツーショット
※その後の話はこちら