見出し画像

なぜ鳥取大学医学部附属病院の広報誌「カニジル」編集長となったのか


 スーパーバイザーとして名前を連ねている結城豊弘さんから鳥取大学医学部附属病院の広報誌編集長をやってみないかと誘われたのは2018年秋のこと。正直なところ、最初はどう返事をしたらいいのかと困惑しました。
 ぼくは編集者であることを放棄した人間です。
 九九年に出版社を退社した後、ぼくはノンフィクション作家として独立。以降、一度も〝編集〟の仕事をしていません。文章を書くことと、編集は似て非なるもの。端的に言えば、作家とは自分の作品の純度をひたすら上げることを目指す個人作業、一方、編集は様々な材料を集めて一つの「メディア」を作る集団作業です。
 ただ、縁を感じたのは「鳥取」と「医療」ということでした。
 ぼくは小学生のとき三年間鳥取市に住んでいました。そして、亡くなった父親は医師でもあり、いつか医療を題材にしようという思いがありました。そして強く背中を押すことになったのは、結城さんから聞かされた、原田省病院長の思いでした。
 米子市の人口は約十六万人。そんな中、鳥大医学部附属病院の一日の滞留人口は約六千人。とりだい病院は、米子市、そして県境を越えた島根県の松江を含めた一帯でもっとも人が集まる場所といいます。それだけ人が集まる場所であることは、地域の文化的、経済的なハブの役割を担うべきだと。
 その後、米子入りして、原田さんと会うことになりました。その場で、米子市出身の経済学者である宇沢弘文さん、そして「社会的共通資本」という言葉が出てきました。
 面白い、と感じました。

 ぼくは、かつて早稲田大学で実践スポーツジャーナリズム論という講座を持っていました。そのとき感じたのは、都市と地方の分断でした。ぼくの大学生時代、首都圏出身者と地方出身者の割合は、五対五程度、もしくは四対六程度でした。そのときの肌感覚では、神奈川、千葉、埼玉を含めた首都圏出身者の比率は八割以上。
 仕事柄、ぼくは日本全国を訪れています。そこで常々感じるのは、地方の地盤沈下でした。首都圏出身者は〝文字〟として知っているでしょうが、感覚的に理解はできない。彼ら彼女らにとっては、別世界だからです。そうした首都圏出身者が、名の知られた大学を出て、大企業、あるいは官僚になる。地方の痛みを知らない人間が、社会の中軸を担うことの怖さを持っていました。
 特に、ぼくたち出版の世界は東京一極集中です。東京の常識が日本の常識になっています。少し前、佐野眞一氏の『ハシシタ 奴の本性』という週刊朝日の連載が問題になりました(内容は下劣で傲慢、とても原稿とは呼べない代物でしたが)。ぼくたち関西出身者は、出自に触れることのセンシビリティを持っています。政治家という公人であっても、何でも書いていいわけではない(橋下徹という政治家はその生い立ちを含めてもっと検証、分析されなければならない。佐野氏の軽率かつ感情的な原稿で、それがタブーとなってしまったことを憤っています)。この問題の根幹には、雑誌メディアの東京一極主義が関わっているように感じていました。
 この広報誌によって、度々米子を訪れることになるでしょう。米子をもう一つの拠点として日本を見ることができるのではないか、首都圏と地方の分断に何かできるのではないか——。これが編集長を引き受けた理由です。
 その思いを巻頭の『カニジル』宣言で書いています。少し長いが引用します。


 病気にかからない、あるいは怪我をしないという人はいません。どんな人にとっても医療は生活に切り離せない。しかし、敬遠したり、垣根が高いと感じる人も少なくありません。そこで、医療の世界を「いかに知ってもらうか」→「いかに知る」→「カニジル」となりました。
もちろん、とりだい病院のある鳥取県の名産品、〝蟹のだし(味噌)汁〟にも掛けています。蟹汁のように、皆さまに愛される存在でありたいという思いを込めました。

 我々が第一にこだわるのは「ファクト」です。
医療に関して、不正確な情報が世の中には溢れています。短く、分かりやすい言葉は人々の心に突き刺さりやすい。しかし、現実はそう簡単ではありません。分かりやすくするために、大切なものを多くそぎ落としています。ただし、医療は、科学的に証明されていることとそうでないことを完全に二分できない世界でもあります。極力、ファクト=エビデンスを重んじていても、そのファクト自体がひっくり返ることもあり得る。大切なのは、愚直に取材し、なるべく確かな文献に当たり、真摯に考える——それが我々、カニジルが進んで行こうとしている道です。
 昨今のコロナウィルスに関する報道で「インフォデミック」という言葉を耳にした方も多いでしょう。これは情報が感染症のように拡散する状況を指します。SNSなどの発達により、我々が手にすることの情報は爆発的に多くなりました。その中から、いかに正確な情報を選び取ることが出来るか。時に生命の危機にも直結する医学では、その力が必要になってきます。カニジルはそのお手伝いとして行きたいとも考えています。
 米子市出身の経済学者、宇沢弘文は著書の中で「社会的共通資本」を〈一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置〉と定義しました。また〈一人一人の人間的尊厳を守り、魂の自立を支え、市民の基本的権利を最大限に維持するために不可欠な役割を果たすもの〉とも書いています。
 とりだい病院は、医療機関であると同時に、この地域でもっとも人が集まる場所です。〈すぐれた文化を展開〉し、〈人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持〉する可能性を秘めているという意味で、まぎれもない「社会的共通資本」であると考えます。
 とりだい病院のある米子市を含めた山陰地方は、「過疎」「超高齢化社会」という日本が抱える問題が凝縮されている場所です。一方、人との温かい繋がり、自然など、都会にはない、豊かさがある。問題を解決しつつ、豊かさをどう維持していくか——。先んじて未来の問題を解決できる場所なのです。
 ファクト、医療、地域、この三つを柱として、カニジルは、楽天的にこの地域の良さを発信していきます。

画像1





 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?