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真説佐山サトルノート round 9 ザ・プロレスラー 藤原喜明

【この原稿は二〇一六年八月から二〇一八年四月まで水道橋博士主宰「メルマ旬報」での連載を修正、加筆したものです。秘蔵写真も入っている全話購入がお得です】



 藤原喜明さんに会ったのは二〇一六年四月、青空の広がる気持ちのいい日だった。
 『KAMINOGE』の井上編集長、集英社インターの中込君と綾瀬駅で待ち合わせて、タクシーで藤原さんの事務所に向かった。
 彼の事務所は、東武線の駅から商店街を抜けた先にあった。綾瀬川のそばである。
 通りに面したガラスサッシを開けると、スチール棚が置かれており、無数の焼き物が並べられていた。手先の器用な藤原さんは陶芸を得意としていた。徳利、茶碗、香炉の他、男性器をかたどった陶器もあった。そして壁にはアントニオ猪木さんの写真が飾られていた。
 藤原さんは百八十センチを超えるがっしりとした躯を黒いウィンドブレーカーとジャージに包んでいた。その上に愛嬌と凄みが同居しているとしか表現のできない、丸坊主の顔が乗っていた。
「佐山の話を聞きに来たんだって?」
 そう言うと、椅子にどっかりと腰を下ろして、足を組んだ。
 藤原さんには聞くべきことが沢山あった。まずは佐山さんが新日本プロレスのテストを受けた日付である。
 佐山さんは後楽園ホールでテストを受けたことを書いた上で〈プロレスラーになってもよろしいでしょうか?〉という最終確認の手紙を実家に送っている。この手紙の日付けから考えると、七四年十月二五日、もしくは十一月八日の後楽園ホール大会のどちらかである。
 すると彼は「そんなこと覚えちゃいないよ」と渋い顔をして首を振った。
「後楽園ホールで、俺らがリング上でスパーリングをやっていたら(山本)小鉄さんが連れてきたんだ。〝おい、ちょっと、こいつ〟って紹介されてスパーリングやったんだよ」
 佐山さんは他のレスラーと同じようにヒンズースクワット、ブリッジをこなしたため、最終試験として藤原さんとスパーリングすることになったのだ。
「ぐちゃぐちゃにやったよ。(入門希望者に対しては)ぐちゃぐちゃにしなきゃいけないんだよ。要するに、なんだ、プロレスってこんなもんかいと思っちゃうからね。でも歯ごたえはあったよ。結構やるなと」


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